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青葉心理クリニック

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Das ist nicht mehr zu haben.
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    Das ist nicht mehr zu haben.

    最近、アドラーのブームが起きているらしく、その源はNHKで特集番組が放送されたことにあるのではないかと思われる。カウンセリングの現場でもアドラーについて語る方が増えているし、先日は友人の医者からもフロイトとアドラーについて質問を受けた。アドラーのいわゆる器官劣等説はフロイトの抑圧理論と同様に「仮説」であり、それだけを見た場合、きちんとした体系を持ち、その中では首尾一貫したものである。これは、同じようにフロイトから離反したユングやライヒ、フロイトと距離を保ちながら離れることのなかったフロム、フロイトに付き従ったが、死の欲動を認められなかったアブラハムなどに共通して認められることだが、それぞれに才能を持った人たちであるので、彼らの仮説、つまりモデルの中ではその言説を認めざるをえない。しかし、大事なのは臨床である。それらの理論、仮説、モデルがどのくらい臨床を説明できるかである。それぞれの理論がどれだけの臨床的射程を持つかということでその理論の価値が決まると考えるのである。
    これを、クライエントや友人の医者にどう説明しようかと改めて考えて、精神分析の治療にとって礎石ともいえる「転移」という概念を説明することで、フロイトの理論と上述の他の理論を分けるフロイトの「性」の概念を説明することで、その概念のない他の理論の射程の短さ、自己完結性を俎上に挙げられるのではないかと考えた。以下、転移について述べて、その根源にある、我々人間が生きていく支えとなることを明らかにすることでフロイト理論、さらにはラカンの理論の射程の長さを述べていきたい。

    まず、転移について、フロイトは夢判断の中で「一番古い幼児体験はそのものとしてはもうありません。それは分析してみると『転移』と夢によって取って代わられているいるのです。」(フロイト著作集 2 p. 155)と述べている。また、「過去の考え方感じ方が現在に移されること」というのがフロイトの転移の定義である。記憶としては抑圧されているが、その時考えたことや感じたことは、現実をとらえる場合には戻ってくるということである。

    この『転移』には表向きには二つの現れ方があるとされる。

    一つは分析の場では、クライエントが両親などに抱いている感情が、分析家に向けられることである。夢の中では、この感情がさらに見かけ上は別の人に転移されることになる。

    もう一つの現れ方は、重要な記憶が抑圧された場合に、その記憶に付着している情動の強さ(無意識の欲望)が他の記憶や表彰へと移動され、それによって表現されることをいう。

    一見別の意味のように思われる二つの現れ方ではあるが、抽象化するとどちらも、現在は失われているもの(「そのものとしてはもうありません」)が持っていた「意味付け」が、現在そこにある別のものに表現されるということでは同じになる。

    「もうない」幼児体験、つまり、失われた子供時代(原抑圧)は、我々が言語の世界に参入する時に必然的に被る疎外によって被る主体としてのアファニシス、つまりラカンの$であり、ここで他者を通じて、失ったものを取り戻そうとするのが主体が生きることに必要な内的な原動力、平たく言うと生きる支えなのである。この失ったものを他者を通じて取り戻そうとする経緯が転移の道筋なのである。「もうない、一番古い幼児体験」は、我々の無意識で生き延びながら、転移の中で別のものとして代理されているのである。
    この抑圧された幼児体験の記憶が代理されたものが、神経症の症状形成の核にある。
    この抑圧されたものに付着する情動的な価値、すなわち無意識の欲望は、幼児時代のことに伴うものであるので、常に性的な(二者関係の)欲望である。神経症の症状の原因は幼児期の抑圧された性的な記憶であり、症状自体はその象徴的な表現である。なぜ抑圧されるのかというと、二人関係というのは社会の関係ではなく、社会の関係は三者関係であり、二者関係から三者関係に参入するためには、すなわち社会に入っていくためには、二者関係の抑圧により三者関係との共存を行うことが必要になるのである。そのためには二者関係と三者関係に認識論的断絶というものを導入しなくてはならない、それを行うために、インセスト・タブーという法の導入が必要で、そこに文化の根源がある。その過程の神話的モデルがエディプス・コンプレックスであり、このコンプレックスの解消が去勢不安によってなされるということである。


    ここで少し見方を変えると、我々人間が生きていく上で支えになる、言語世界に参入する前の、もうない幼児体験を取り戻したいという無意識の欲望はフロイトのいう性的な欲望であると同時に、その幼児体験は言語によるプロセッシングを受けていないのだから、言語の方向から言う欲望よりも、身体側から言う欲動をその駆動力と考えなくてはならない。その駆動力を性欲動と言い、そのエネルギーをリピドーとした。だから性欲動というのは人間が生きていく上での根源的なもので、「性」というものをこのようなものと考えた時に、フロイトが「性」というものを精神分析の根源的なものと考えたことが初めて理解されるのである。「汎性欲主義」と批判されたフロイトの仮説ではあるが、その批判とは裏腹に、性の意味を上述のごとく理解すると、その言葉自体は皮肉にもその本質を表現していたと言えるかもしれない。このような「性」の概念を否定したユングやアドラーの理論が、理論としては完成されたものであっても、「転移」という概念の説明の根拠がないことだけからも、その射程が短いということがお分かりいただけたであろうか。
    | 1.サイコセラピー | 17:13 | - | - | - | - |