RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

11
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
--
>>
<<
--

青葉心理クリニック

<< 倒錯について 9 | main | 倒錯を理解するために >>
倒錯について 10
0

    Refusing the Sacrifice

     

    犠牲と強要の概念は確かに倒錯についてのフロイトの著作にないわけではない。それを最もはっきり見ることができる場所の一つはフロイトの「自我の分裂」の考察である。フロイトが強調するのは「自我の分裂」が倒錯では起き、神経症では起きないということである。 神経症では、矛盾した考えは異なったレベル、すなわち異なった審級に位置する。例えば、「義理の妹を抱きたい」という思考は抑圧され、無意識に存続する。一方、「義理の妹を抱きたくない」という考えが意識に存在するようになる。

     

    17)フロイトは、ある考えが id エス にあり、別の考えが自我にあると言っている。

     

    他方、倒錯においては、自我自体が(自我という審級それ自体が)分裂する。そして矛盾する思考 ー 女性はペニスを持っていると同時に持っていない ー が同じ(自我という)審級に並んで維持される。

     

    18)フロイトは、「知」knowledge の点から,この自我の分裂を理解するように促している。フロイトによると、女性性器の知覚が意識から追い出されるのは、父が男の子のペニスを切り落とすぞと脅しているのは本気なんだと暗示するからである。(実際、男の子は父が既にその切り落としをその子の母親にしたんだと信じている。)大事なものを失うのではという新しく認識された可能性はかなりの不安を招く。この不安は神経症の場合のように症候が不安を固定して軽減させるのではなく、一種の分裂( Spaltung )を形成して処理されるのである。この分裂は「知」の二者選択が無矛盾律の一種の局所的な停止により、並んで維持されているようなものである。つまり、「女性はペニスを持っていない」と「すべての人間はペニスを持っている」の二者選択である。倒錯者が、彼の周りの人たちが言うこと(「女性はペニスを持っていない」)をただ繰り返すだけの観念的な、繰り返しで記憶させられた「知」はあるかもしれないがしかし同時にあるレベルでは、その思考が倒錯者に不安を生じさせるのでそれは本当だという認識もあるかもしれない。しかし、これと並んで、すべての証拠を超えて信念を導くある種の主体的必然性がある。つまり、耐えられない知の否認である(それは今は小さいが、やがて大きくなる。)。倒錯者は女性がペニスを持っていないのを十分承知しているが、やはり持っているのではないかと感ぜざるをえない。(「わかっちゃいる、でも」) 神経症がセクシャリティを意味する両立しえない考えに対する防衛である ー 古典的な形式をとる否定を導くので、「私の夢に出てきた人は私のお母さんではありません。」という考えが意識になるのは「not : 〜ではない」をつけたことだけによる ー のに対して、倒錯では、フロイトによれば、一種の分裂を伴っており、イエスとノーを同時にいう。

     

    フロイトはこれを精神病にとっておきたかったであろう処理手続、つまり自我による部分的な「現実の拒否」として言及する。しかし、彼が分裂の概念を基礎付けるために提出した症例での記載は抑圧の症例とほとんど変わらない。というのは、神経症では抑圧されたものは二つの症候に姿を変えて回帰する。( 継続された自慰のために父に罰せられるのではないかと言うその男の恐怖と両方のつま先が触れ合うことに不安を感じやすいこと)症候形成には、フロイトが言う通り、争う二つの異なった審級が ーエゴとイド、すなわち、意識と無意識 ー 必要で、だから神経症の条件となんら変わらないものをここで持っているように思われる。すなわち、自我が抑圧によって意識と無意識に分裂するのである。 しかし、分裂と思われるこの症例を、どこで断念が(欲動によって供給される快を断念することが問題なのだが、スタンダード・エディションでは instinctual renunciation 本能的断念と訳されている)始まるかを理解するために注意深く調べてみよう。早期に年長の少女に誘惑されて女性の性器を知らされた少年はその少女との関係が壊れた後で彼の性器を触って快を覚えた。ある日、彼の子守が彼がそうしているのを見つけて、やめないとお父さんがそれをちょん切っちゃうと言った。フロイトが言うには、通常の去勢恐怖の結果、正常な人[神経症]とされる結果、直ちにであれ、かなりの苦悶の末であれ、少年はこの恐れに屈して、完全にあるいは少なくとも部分的にこの禁止に従う。(すなわち、もう自分の手で自分の性器を触らなくなる)言い方を変えると、完全に、あるいは部分的に、欲動の満足を放棄するのである。しかし、この少年は何の恐れも起こらないかのように自慰を続けた。彼は父の名の下に享楽を放棄することを拒否したのである。子守は彼の父が是認しないだろうから、父のために(さもなければ父は彼を去勢するだろうから)自慰をやめるように彼に求めたが、彼は拒否した。 享楽の喪失の可能性に直面した時に倒錯者と強迫神経症者は異なる方法で反応するとフロイトは暗に示す。強迫神経症者はしぶしぶであり、熱意なく、享楽の幾つかを後で取り戻そうとするを止めようとしないかもしれないがそれでも、その喪失に従う。彼は尊敬、承認、是認といった象徴的に同価値であるものをを求めて享楽を放棄する。あるものを得るために他のものを失う。彼は自分のペニスに対する自己愛的(想像的)愛着を諦めるように誘導されると言って良いかもしれない。そのペニスがラカンの言う想像的ファルス、φ、で、自己愛的に備給されたペニスである。そして、それは彼に自体愛的な喜びを与え、社会的、象徴的なレベルで何かを得ることができる。彼は、Φのためにφを諦める。Φはシニフィアンとしてのファルスであり、社会的に認められた価値と欲望のシニフィアンである。ラカンがハンスについて言うように、ある意味で、少年は父親の, より大きくて、より良いファルスを得るために自分の小さいファルスを差し出さなくてはならないのだ。しばしば、父のファルスは結局、十分に大きかったり、よかったりしない。しばしば全く不十分だと思われ、少年は酷い仕打ちを受けたと感じ、父に対して永遠にそれを忘れないだろう。それでも自体愛の幾つかは強迫神経症者によって、明け渡され、断念され、譲り渡されるのである。

     

    20)何はともあれ、強迫神経者の自体愛的な行動は変形される。というのは、自慰を続けると、それは父の禁止の無視であり、こうしてこの禁止が自慰行為の重要な部分になる。大文字の他者はそれに伴うファンタシーに(もちろん、必ずしも意識的にではないが)含まれるようになる。例えば、私の女性のクライエントの一人は、力強い男性にじっと見られていると幻想しながら自慰を続けた。 大文字の他者に快を引き起こすことも、フロイトがそれを概念化した通り、昇華の言葉で理解されうる。

     

    一方、倒錯では、この快を譲り渡さないし、彼の快を大文字の他者に譲らない。フロイトは何度も、倒錯者は自分の快、すなわち(彼のファンタジーの中で)自分の母親ないしその代理に関係した快を断念しないと主張している。

     

    21)フロイトによると、幼い男の子の自慰的行為は普通は自分の母親についてのファンタジーと関係している、つまりそれはすでに愛他的 alloerotic であることを暗示している。

     

    言葉を変えると、他者を伴うということである。甚だしきに至っては、とても幼い年齢より他は、自体愛なんてものはないと主張する。両親が最初にある感覚帯を刺激し、それらに関心を示し、それらに注意を払い、それらに気配りを与えるなどをする限りにおいて、幼児が自慰的に触ることですらすでに両親と関係がある。他の人々とのつながり、それは常に自体愛的行為を伴う大人のファンタジーでは明白なのだが、それなしにはこのようなものとしてのエロティシズム 性欲はないのではないかというぐらい基本的なものである。すべてのエロティズム 性欲は愛他的なのである。 なぜある少年はそれを譲渡し、ある少年はこばむのか? フロイトはこの拒絶を体質的因子で説明することがある。つまり、倒錯者の欲動は神経症者のそれよりも強く、神経症者にはできるやり方では、服従させられたり、手なずけられたりしない。しかし、違う説明が可能だと思われる。以下を考えて見よ。 臨床的な著作や毎日の観察から、母親たちはしばしば夫たちに不満足で、子供たちとの関係に人生の満足を探す。母親が女の子より、男の子を人生におけるすべてをもたらす補完物としがちだと臨床的にも確かめられているが、それは子供の性(もちろん性の社会的な意味で)によると仮定し得るのみである。

     

    23)例として、小さなハンスの母親の行動を考えてみよう。彼女は娘ハンナは叩くのに、息子は自分のベッドに入れ、風呂にも一緒に入るというようなことをしていたのである。

     

    さて、息子のペニスに対する母親の関心は男性の性的器官に享楽が局在化するのに寄与する。母親が息子のペニスに大きな価値を置く場合には彼は極端にそれに愛着するかもしれず、自己愛的に言うと、母親とのエロス的な関係全体がペニスをめぐって行われる。しばしば、このような息子は母親から離れろといういかなる要求に対しても精力的に抵抗を示す。その闘争は、たとえペニスに対するいかなる威嚇がない場合でさえも、ペニスに集中しやすい。(このような直接の威嚇は思っている以上にしばしばなされる。)

     

    24)倒錯者が自分のペニスに強い自己愛的愛着を示すことや、過剰な欲動を持つことについてフロイトが話すときにその意味をどうとるかを私は次のように考えている。欲動はその源が体質的でも、生物的なものでもなくて、大文字の他者の要求の機能として存在するようになる。(例えば、肛門欲動は子供が排便訓練されるように、というのはこれは排泄機能をコントロールすることを学ぶということなので、両親が要求することで存在するようになる)倒錯者の欲動の強さは倒錯者のペニスに関して、大文字の他者としての母親が持つ関心や要求にその原因がある。

     

    母親が同じぐらいの程度まで娘を自分の補完物と受け取らない、人生においてこれほど強い満足に関して娘を当てにしない、彼女らの性器ににこのような大きな関心を示したりしない限りでは、母親と娘の関係は同じ程度まで性愛化するのは稀で(精神病の場合でも、そうだろう)、普通女性の場合には享楽は普通象徴的に男性と同じような形で局在化することはない。母親からの分をめぐる父親との闘争も同じように危機に陥ることはないし、特定の器官に集中することもない。フェティシズムは倒錯の中でも重要な理論的な位置を占めていて、性的器官の代理に大量のリビドーを局在化することを伴っているが、これは少女では少年に比べて極めて限定的にしか行われない。 父親は母親から娘を分離するのにはあまり苦労しないことが多い。(息子との場合のようには娘と争っていると感じないし、娘にそうするのが重要だとも感じないかもしれない。)それでも、父親が効果的でない場合、倒錯の特徴を持つヒステリーになったり、父親が一切介入を拒否した場合には、精神病になったりしやすい。 これは、ある程度、倒錯者に関して語るときに私が男性代名詞だけを使うことを説明している。精神分析用語では、倒錯は事実上もっぱら男性用の診断名である。実際ラカンは「女性のマゾヒズムは男性のファンタジーだ」とまで言う。

     

    27)同様にラカンはドンファンは女性の夢であり、何も欠けることのない男性を夢見ているのだと定義している。彼はまた、ドンファンを女性の神話であるとも言う。ラカンは女性のマゾヒズムなるものは絶対にないと言ったのではなくて、むしろ彼が言いたいのは、男性はマゾヒズムを女性の中に見がちなのは男性がそれを女性の中に見たいからで、男性がそう信じたいほど、女性のマゾヒズムはほとんどいないということである。 男性はこの女性はマゾヒティク(後で見るように、彼女は彼の中に不安を生じさせようとしているということを意味する)だというファンタジーを通して、彼自身の不安に夢中になる能力を維持し、彼にとって正に彼の欲望の条件(欲望に是非との必要なもの)として提供される対象と一致するのである。欲望はただ単に不安を覆い隠したり、偽り隠すものではない。「男性の領域には、常にある種のペテンがある。」、masuquline masquerade 男性の仮装と名付けたい誘惑に駆られる何かである。

     

    そして女性同性愛を倒錯ではなくて、異性愛 heterosexuality だと述べている。つまり、大文字の他者の性、すなわち女性を愛することである。Homosexuality を、Hommosexualite とラカンは綴り、homme, つまり「男性」から二つのmを含ませ、男性を愛することとしている。

     

    28)「当人の性にかかわらず、女性を愛する人たちを定義によって異性愛 heterosexual と呼ぼう。」

     

    男性は倒錯に関しては弱い性であるというラカンの主張は、確かに私たちの思考をためらわせるが、ここで提供できる以上の説明を保証している。

     

    29)ジャック・アランミエールの On perversion からの引用

     

    ” 女性の倒錯 Female Perversion “

     

    女性の倒錯をその姿がないところで探さなくてはならない。女性の自己愛はその概念を拡張することで、倒錯と取れるかもしれない。女性は正確な意味では大文字の他性であり、大文字の他者は鏡の前で多くの時間を費やす。自身を正しく認知するあるいは多分、自身を大文字の他者として認知するために。これは神話かもしれないが、とても大切なことである。女性の倒錯を自己愛の中に、その人自身のイメージの核に、あるいはフロイトが言ったように、子供の中に ー 子供は満足の対象として用いられる ー 認めるかもしれない。 後者の場合、母親と想像的な対象、すなわちファルスがある。ここでの母親は男の子の倒錯の原因であるが、同時に子供を享楽の道具として使う。前述の公式に従うと、これは倒錯と呼びうる。最初の倒錯のカップルは母親と子供だったのか?ラカンは50年代には、隠された女性の倒錯の表現を見るかもしれないのは母親自身の体と子供の結合においてだと示した。 女性同性愛が男性の器官を除外する限り、それを固有の倒錯に登録するにはいささか困難がある。ラカンは女性同性愛の社会的重要性はないと言った。フロイトに従うと、男性同性愛は基本的な社会の紐帯である。すなわち、社会の紐帯の原理である。女性同性愛は機能がない。大きな文化的重要性はあるかもしれないが基本的な社会的重要性はない。 「もしそれが倒錯でないならなんと呼べばいいのか?」と聞くかもしれない。「女性同性愛」あるいはおそらく、「それをラカンは「女性に対する愛」と定義した異性愛 heterosexuality 」といっそ呼んだ方がいいのかもしれない。ヒステリーの女性同性愛を考えねばならない、女性が分析に入るとそれが魔術のように消え失せる。彼女が分析家を接近できないものとして愛することができる限り、女性同性愛で実現された愛への希求は直ちに転移へと移行し、あなたは魔術的な治癒の目撃者になるだろう。他のものはとても長い時間がかかる。 率直に言って、私にはラカンが言うこの母と子の関係の倒錯的特徴と、倒錯構造とが同じものなのかどうかはわからない。

     

    なぜある少年は快を諦めることに同意し、他の少年は拒否するのかの疑問に戻ると、母親と息子に非常に緊密な結合のある症例において、父は、分離をもたらすために、脅迫において全く力強くなくてはいけないし、そして、あるいは尊敬と承認の約束を全く確信させなくてはいけない。このような緊密な結合が形成できるようになった、まさにその事実が、父が父の機能を果たせないことと介入しようと思わないことを示している。( 多分、その父は妻から一人にされるのを喜んでいて、そうすれば、妻は息子を独占できる。 ) 父はある精神病の父親の張り合う残忍性は避けるものの、彼自身を象徴的分離者( 「これは俺のもの、そしてあれはお前のもの」という人、つまり、子供に象徴的空間を与える人 )の位置に強力におくことはしない。たとえ彼がそうしようとしても,少年の母親によって陰険な手段で傷つけられているかもしれない。その母親は父が背中を見せた時に、少年にウインクをして、彼に特別な関係はかき乱されず密かに保たれていることを知らせる。 私には焦点をフロイトが存在すると仮定してきたと思われるそういう父、つまりの息子を母親から分離させようとする意思を力強く宣言する父( 倒錯者は頑固に拒否する息子である)から平々凡々とした現代の父、より弱い姿でそして彼の役割についてしばしば混乱する父へと移行させなくてはならない。

     

    30)忘れてはいけないのは、このような弱い父は少なくとも古代ローマに遡れば文献上たくさん認められることと、19世紀以来、父がかなりの力を無くしたというのは少し証明不十分であるということである。

     

    母親ー息子の結びつきが強く、弱い、あるいは無関心な父の場合では、父の機能は全くないわけではないが、後押しが要るのは尤もである。8 章の終わりに言ったように、ハンス坊やのような早期の幼年時代の恐怖症は、4歳を中心として現れ、恐怖症において中心となる対象(ハンスの場合は馬)母親と子供の分離に寄与する Name -of- the-father 父の名 として役に立つ。ハンスはある特徴を馬に与え、それはとりわけ「anger 怒り 」であり、ハンスの母親との特別な結合に関して父に示してほしいものだった。(「あなたは怒っている。そうだろう。そうに違いない。」)でも彼は決して父がそうするのを認めることができない。倒錯では、早期の幼年時代の恐怖症のように父の機能の部分的な不全から生じ、この機能は後で分離をもたらすために付け加えることを必要とする。フロイトがしたように、倒錯者は享楽を犠牲にするのを拒否したり、母親や、母親の代理(例えば、フェティシュ)との関係から得られる享楽を維持しようとすることを強調することよりもむしろ我々は父の機能がで不十分あることを強調する必要がある。 否認 disavowal は防衛機構として記述されうるが、その防衛は子供が享楽を犠牲にしろという父親の要求に対するものであるが、その代わりに、ハンスの恐怖症のように単に回避的なものとしてではなく、不安を和らげる分離が起こりうるように父の機能(父の法において表現される)を支える試みとして、それを見る。大文字の他者がその法を宣言する試み、つまり、法の場を示す試みとしてである。ラカンの見方では、大文字の他者としての母からの分離はある点(分離に際して、対象が失われる、あるいは消え失せる)では不安を生み出すかもしれないが、より深いレベルでは、つまり存在のレベルでは、普通は救われるのである。ハンスは意識レベルでは母親が行ってしまうのを恐れているが無意識的には彼女が去ってくれれば、彼女に関わりのない欲望を持てるのにと望んでいるのである。彼の分離不安は彼の母親とうまくやり続けたい、言葉を変えると彼女からある快を得たいという希望を反映するが、同時にうまくやることをやめたいという希望、享楽を終わりにしたいという希望がある。というのは享楽は彼を飲み込み、彼が欲望する主体となるのを止めるからである。

     

    31)以下のやり取りの中で子供が母親以外の女性に欲望を示した時に、彼に罪悪感を感じさせて彼が母親以外の女性に欲望を持つことを防ごうとする母親のやり方を考えよう。 ハンス「ああ、下に行ってマリドールと眠りたい。」 母親「本当にママから離れて、下で寝たいの?」 ハンス「ああ、朝になったらまた上がってきて、おしっこするよ。」 母親「いいわ、あなたが本当にパパやママから離れたいなら、上着とズボンを持ってらっしゃい。バイバイ。」 このように彼の分離不安は実際には分離、母親からの分離に対する希望を示している。

     

    享楽は単に過大評価されている。すべての人が実際に欲しがるほど素晴らしいものではないが、倒錯者はそれを諦めることを拒否し、それに惹かれ、それを獲得する唯一の存在であろう。

     

    32)実際フロイトが言う通り、(倒錯者でないならば)快感原則が我々に緊張と興奮の可能な最低のレベルを成し遂げさせるだろう。

     

    前章で見た通り、精神病者は身体に制御できない享楽の侵入を受けたために苦しんでいる。神経症とは享楽に対する戦略であり、とりわけその取り消しである。倒錯も、享楽に対する戦略であり、それへの限界を置く試みである。

    | 1.サイコセラピー | 06:08 | - | - | - | - |