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青葉心理クリニック

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倒錯について 11
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    今回も、Bruce Fink の 「A clinical introduction to Lacanian Psychoanalysis」の第9章の訳出である。例によって、シェーマをブログに出せないので、Fig.8.3と Fig.9.1 は原書から拾っていただくしかないが、今回の、Being abd Having, Alienation and Separation を理解していただけば、「倒錯者の位置」ないし、「倒錯者の原理」は、いわゆる倫理道徳的な理解を離れ、Pshycosexual development の一段階への固着に過ぎないことが理解されると思う。

     

    Being and Having , Alienation and Separation (「〜であること」と「〜を持つこと」、疎外と分離)

     

    倒錯のすべての問題は子供が、その母との関係において、つまり、生物学的な(生命の維持に必要な)依存によってではなく、母への愛、すなわち母の欲望への子供の欲望によって分析の中で構成される関係の中で、母の想像的な対象とどのように同一化するのかということである。                    ーLacan, Ecrits,554/197-198

    (この文章は、Finkの他の著作でも何度も引用されている。)

     

    フロイトが我々に示すのは、父の名のおかげで人は母親の性的なサービスに束縛されたままにならないですむということである。                    ーLacan , Ecrits, 852; Reading Seminars and

     

    倒錯に関する私の本質的なテーゼを記載するための一つの方法は「倒錯者は疎外を、別の言葉で言えば、原抑圧、意識と無意識の分裂、真に来るべき言語における主体になるべく用意する父の名を受け入れるないしは認めることを(精神病者とは違って)経験してきたが、分離は経験してこなかった」と言うことである。

     

    注33)この本でのラカンの用語である疎外と分離についての私のコメントは全く基本的でしかないので、詳しくは、The Lacanian Subject の5、6章を参照のこと。ここで注意すべきは、主体は疎外を通して言語の中に存在するようになるが、主体は単なるプレースホルダーとして、すなわち欠如として存在するようになるということである。本質存在という方向で何かを与えるのが分離である。 (「倒錯を理解するために」としてこの前のブログで訳出したFink のThe Lacanian Subject 5章を参照してほしい。)

     

    ここで、倒錯者の疎外をどう特徴付けられるだろうか? ラカンが言うように、我々は大文字の他者の欲望の部分対象としてこの世界に現れる( Ecrits, 582/225)、大文字の他者の欲望の対象となること、大文字の他者の欲望を勝ち得ることを望みながら、そして倒錯者には、彼の父親の欲望は全く言明されていないかのように思われ、母親が自分自身でその想像的対象をファルスとして象徴化する限りにおいて、倒錯者の母親の欲望の想像的対象に同一化する。(Ecrits, 554/198)

    表現を変えると、母の欲望の想像的な対象はここではファルスであり、そのファルスは置き換えができるシンボルではなく、仮定的に言えば、母親が欲望するであろう、すべての地位を表す装いや、すべての社会的価値を設定する対象や、社会的に受け入れられた「真の男」、かってのファルスの所有者に似ている夫(あるいはボーイフレンドなど)という意味としてのファルスではなく、象徴化されない、代替え不可能な、置き換え不可能な対象としてのファルスであり、そして子供はそのファルスになろうとするのである。子供は母親の小さな宝物、フロイトならそう言ったであろう、母親の小さなペニスの代わりになろうとし、父親は多くは介入しようとしない(多分一人で居たいから)か、彼の介入の目論見は無効であるかなのである。

    8章で導入した図を用いると、倒錯者の位置をFig.9.1のように示すことができる。この図を神経症者のそれと比較すると、倒錯者の主体の位置は大文字の他者を超えたところや、外部を必要としないことがわかる。その代わりとして、主体として、倒錯者は対象の役目を果たす。つまり、大文字の母親の空虚を埋める対象である。図式的に言うと、大文字の他者における最初の分割は倒錯者には起こっている。つまり、大文字の他者は完全ではなく、倒錯主体の大文字の母親は何かが欠けていて、何かを求めている。「私は何か?」と言う質問に対する倒錯者の答えは、「私はそれだ」それとは母が欠いている何かである。倒錯者にとって、このように、存在の永続した問いはない。つまり、倒錯者の存在の理由に関して永続した問いはないのだ。

    男の子を母親から分離させるなら、男の子にファルスであることを辞めさせ、ファルスを持てるようにする必要があるだろう。つまり、(父親の父の認知や評価、社会的、象徴的活動の場を通して)象徴的なものを得るために想像的ファルスであることを辞めさせる必要があるだろう。男の子が母親にとってのファルスであれば、決して象徴的な位置を取れないだろう、その位置は象徴的去勢に伴うのである。母親が誇れる何者かになるよりむしろ、男の子は母親に愛情を持って抱きしめられ、撫でられ、多分性的な絶頂にさえ達するであろう何者かのままでいる。彼は世の中で有名になることができない、と言うのは彼が望みうるのは象徴的な達成ではないからである。

     

    注34)ここでは父親がファリックなシニフィアンを提供できていない、例えば、ハンスの想像的ファルス(この少年の夢の一つの中で、風呂桶のコック、彼のペニスのシンボル、が水道屋によって取り替えられる)のネジを緩めて外し、象徴的なファルスに取り替えることがでできない。

     

    彼は彼の母親の最高の目的として仕えるという水準に固着したままになる。

     

    原抑圧は主体が存在するのを可能にするが、それから子供は「僕は誰なの?」「両親にとって僕は何なの?」と問われるままになる。倒錯者は自身を大文字の母親に欠けているのものとして構成し、自身を母の欲望の対象とする、つまり自身を母親の対象aとするのである。彼は母親が無くしたもの(彼女のペニス/ファルス)そして彼女が欲するものに成る。子供は自身で母親の欠如を埋める。大文字の他者の欲望/欠如は、5章で詳細に説明してきた通り、名付けられない限り、不安を作り出し、この不安に対する倒錯者の解決は大文字の他者に享楽あるいは(たとえ一時的でも)欲望を消し去るある種の満足を提供することで母親の欲望を塞ぐものに成ることである。

     

    注35) 症候のように主体の位置は基本的には問題への解決策である。ここで注意して欲しいのは、Fig 9.1で示した倒錯者の解決策は、Fig.8.3のヒステリー者の解決策とある類似性を持つことである(倒錯者では主体の側が全く失われているが。)しかしながら、倒錯者とヒステリー者の(解決策の)間には、その使用域の重要な違いがある。つまり、ヒステリー者は大文字の他者の欲望(これは象徴的なものである)を引き起こす対象になろうとするのに対して、倒錯者は大文字の他者の享楽(これは現実的なものである)を引き起こす対象になる、すなわち、大文字の他者がそれによって満足を得る対象になるのである。第8章で見たように、ヒステリー者はそれによって大文字の他者が満足を得られる現実的な、身体的な、対象になることを拒否するのである。

     

    倒錯者との分析をするのがなぜそんなにも困難であるかの訳をこれが説明している。すなわち、倒錯者は分析者の欲望を満たす(塞ぐ)ことができる対象の役を演じることを期待して、対象aの役を自分自身に割り当てる。倒錯者が欲望の原因の位置を占めようと一生懸命な場合、倒錯者の分析主体(被分析者)の欲望の原因になるというやり方で転移を巧みに処理するのを強いるのは分析者には困難であろう。倒錯者は分析者を自分自身の沈思の原因とするよりむしろ、分析家の不安や欲望の原因として務めるだろう。このように純粋に倒錯者と分析をするのは極めて難しく、無意識の形成物によって、分析家が倒錯者に強調したものによって、倒錯者に興味をそそらせ、彼らの欲望を動かすのは難しい。ラカンが言うように、対象aが大文字の他者、ここでは分析家としての大文字の他者の中に、転移が可能可能になるように、主体によって位置づけられなくてはいけない。(Seminar 勝July 3,1963)

     

    注36) 分析家は分析主体(被分析者)の問い、あるいは満足の欠如の場所を占める。(その人の存在の理由であろうと、その人に性的満足を与えるものについての混乱であろうと)問い、あるいは欠如がないと、分析家は自分の務めを果たすことができない。ジャック・アラン・ミエールが言うように、知っていると仮定される主体が生じるためには性的享楽の場に何らかの空虚や欠落が必要なのである。

     

    しかし、倒錯者の位置をより厳密に明確に表現するためには、倒錯者は大文字の母親の欲望よりもむしろ大文字の母親の要求を扱っていることが強調されなくてはならない。子供の大文字の母親が「持つ」欲望/欠如が名付けられない、つまり口に出されない限り、子供は母親の要求にのみ直面させられる。厳密に言うと、欠如は象徴的体系の外部には存在しないので、子供は母親の欠如すなわち欲望に直面させられることすらないとも言える。ラカンが繰り返し用いる何が欠如を構成するかの説明は、図書館の本棚にない本の例である。知覚の見方からは、我々はそこにあるものだけ、、現存するものだけを見るので、そこにないものは見えないのだから、その本がない(ないことは見れないのだから)とは言えないことになる。その巻がその場所にないとか、なくなっているとか言えるのは(一巻と三巻がそこにあれば、その間に空間はないわけだから)例えば、デユーイの十進法の体系や、議会図書館の書籍分類体系のような象徴的な方眼が本の記号や名前を提供できるからでしかない。ある空間や場所を割り当てたり、規定したりするシニフィアンの体系がなければ、何ものもなくなっていると考えることはできない。言語がなければ、すなわち、象徴的な秩序がなければ、何ものかが欠けていると考えることはできない。

     

    このことが意味するのは、我々は、その母親が何かの点で欠けていると言われるまで、その母親を欠如として語ることさえできないのである。つまり、母親が自分で何かあるいは誰かへの切望、何かあるいは自身の子供へではない欲望を言葉にするまで、あるいは誰か(典型的にはその父親)が母親の欲望(例えば、母親は何々をうらやましく思っているとか、毛皮のコートを欲しがっている、昇進したい、父親にはああではなく、こう振舞って欲しい)あるいは母親の足りないところについて言明するまで。子供は、母親の欲望すなわち欠如が明確に述べられ、口に出されるまで自分の母親が欠けている、欲望していると理解しているとは言えない。一度それが名付けられるや、母親の要求の重み(例えば子供の身体的機能に関する現実的な、物理的に避けられない要求)が解除され、欲望の空間が利用可能になる、その空間では母親の欲望が明確に述べられ、動き、そこで子供は母親の欲望を自分の欲望のモデルとすることができる。

     

    「それ」が名付けられるまで、欠如はない。子供は要求としての大文字の母親に覆い隠され、自分自身の立場を適合させられない(欲望というものが享楽に関して立場を決め、享楽に対する防衛となる)

     

    注37) ここでは、最初のリビドー的な対象(すなわち、子供に享楽を与える対象)はその母親である。

     

    ここで子供は「欠如の欠如」と言えるものに直面しているのである。大文字の母親の要求だけが存在し、彼女は語るべき何ものも欠けていない、子供にとって象徴化できる何ものもない。

     

    注38) ラカンは「欠如の欠如」をやや異なった文脈で取り上げている。母親がいない、子供と共にいない時に子供は不安になると最も普通に信じられているが、ラカンはその反対に、不安は実際には、大文字の母親が常にいる時に「欠如の欠如」によって生じると言っている。 「何が不安を引き起こすのか? 言われているのとは違い、母親がいるーいないのリズムでも交代でもない。何が不安を引き起こすのかを証明するのは子供が「いるーいない」のゲームを繰り返すことで欲望を満たすことである。在の安心は、不在の可能性に基づくのです。子供にとって最も不安を作り出すのはそれを通して彼が存在するようになる関係、それは子供に欲望させる欠如を基盤としており、それが最もかき乱された時である。つまり、欠如の可能性がない時、母親が常に子供の後ろにいる時である」( Seminar 勝12月5日、1962) 倒錯者の場合にこれが示すのは、母子関係が過度に密接であるならば、母親が「所有している」子供を超えて何も欲望することはないと思われ、母親が欠けていると受け取られないだけではなく、子供自身が自分自身の生活になんの欠如も感じないし、このようであれば欲望することができない、厳密にいうと欲望する主体として存在することができない。ラカンが語る欲望は、欠如を覆うものであると同時に、不安に対する治療でもある。

     

    しかし、一度名付けられると、現実の欠如(母親の生活での欠如、例えば、旦那に、自分の職歴、自分の一生に満足できない、ー 語られることはないけれど息子を通してうまくやろうとしてきたもの)はある程度無効にされる。ラカンが言う通り、言葉は「もの」の死因である。「もの」(現実的欠如)は、一度名付けられると、言葉として存在するようになり、他の言葉と結バレ売るようになり、冗談などにされうる。言葉は、それが意味し、示す「もの」よりははるかに危険が少ない。と言うのは、言葉は「もの」を全滅dさせ、その圧倒的な力のいくばくかを流し去るからである。

     

    大文字の母親が無くしたものが名付けられると、子供が母のためにそうであったその対象はもはや存在できない。欲望がはっきり言葉で表現されたので、じっとしていられなくなり、あるものから次のものへと換喩的に転々とし、置き換わるからである。欲望はランガージュの産物であり、対象で満足させることはできない。大文字の母の欲望を名付けることは子供を対象としての子供の位置から追い出させるし、母の欲望へのつかまえどころのない鍵の追及に子供を駆り立てる。母は何を欲するのか?母親の欲望が出くわす、終わりのない物事の連続を特徴付けると思われる、言いようのない何かは、西洋社会ではファルスとして知られるものである。母親を完全にするために現実の対象(現実の臓器)は必要とされず、子供は母親の欲望が示すもの、欲望できるものとして、ファルストして暗示するものを所有することを求めるように進むことができる。 大文字の母の欠如は子供が資格充分の主体になるために名付けられるあるいは象徴化されなくてはならない。倒錯においては、これが起こらない。思考のレベルでこの欠如が存在するようにできる、その現実の重みを軽くするいかなるシニフィアンも提供されない。母親の父親も象徴化に必要な分節化を与えない。フロイトの著作に見るように、倒錯においては大文字の母おい屋の欠如の疑問は大文字の母親の性器の周り、母親の息子との性差に集中することが多い。この章の終わりで、母親の性器を中心題目とした症例で、むしろ抽象的な用語で議論された、命名(すなわち名付け)の重要性の詳細な説明を見るであろう。

     

    7章1において、父性隠喩には二つの契機があることを示した。大文字の母親の欲望/欠如の名付けは二番目の(論理的)契機である。父性隠喩の第一番目の契機は母親との子供の満足を与える接触の禁止(享楽の禁止)で、父の名は父の「否」の形をとる。

     

                      父の「否」

                  ---------------------------------------

                   享楽としての大文字の母親

     

    二番目の契機は大文字の母親の欠如の象徴化を意味する、すなわち名前(ここでは父親によって与えられる名前としての「父の名」あるいは、大文字の母親の欲望の名前としての父親自身)を与えられるという事実による欠如の構成である。

     

      

                                                                  父の名              

                                                 ------------------------------------------

                      欲望としての大文字の母親

     

     

    この二つの置き換えの契機は上記のようにシェーマとして表される。

     

    二番目の契機だけが純粋に換喩的と考えられる、というのは言語が名付けによって資格を有するやり方で行為するのは二番目の場合だけだからだ。この二つの契機はFig.9.1で与えられた二つのシェーマに正確に対応する。一番目の契機は大文字の母親の中での分割を招くのに対して、子供は大文字の他者が満足を得る対象として存在するようになる。一方、二番目の契機は(享楽の源としての大文字の他者から分離して)欲望する主体の出現させる。一番目の契機はラカンが疎外と呼ぶものに相当し、二番目は分離に相当する。一番目はフロイトが原抑圧と呼んだものに、二番目は二次抑圧と呼んだものに有効に関連付けるであろう。 初めに言ったように、ここでの私の本質的なテーゼは、倒錯者は疎外を経験しているが分離を経験していないというものである。精神病者はどちらも経験していないのに対して、神経症者は両者を経験している。図式的には以下のようになる。

     

     

    以下の部分は、原著の179pを参照のこと。

           疎外                         分離

     

                                                                            

                               父の「否」                                                      父の名

    精神病者 ------------------------------------------------  倒錯者  ---------------------------------------------  神経症者

                         享楽としての大文字の母親             欲望としての大文字の母親 

     

     

           原抑圧                        二次抑圧

           享楽の禁止                      欠如の名付け

     

                             φ                        Φ

                             要求                       欲望

     

     

     

     

     

     

    精神病者が父の禁止の不在、不全によると理解できるならば、倒錯者は象徴化の不在ないし不全によると理解できる。 注39) 倒錯には、後ろ向きと前向きの仕草の両者があると思われる。前者は大文字の他者に満足を与える試みを意味し、後者は、下記のように、父の名付けの行為を支えるないしは補おうとする。神経症においても、同じような後ろ向き、前向きの仕草がある。前者は大文字の他者が欲望するものになろうとすることを意味し、強迫では、大文字の他者の欲望のシニフィアンΦを完全に体現させようとするし、ヒステリーでは大文字の他者の欲望の原因(a)を完全に体現しようとする。後者は大文字の他者の欲望への固着を振り払う試みを意味するが、これが分析主体(被分析者)の進路である。                       

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