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青葉心理クリニック

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倒錯について 12
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    今回もFinkのLacanian psychoanalysisの訳である。これで倒錯の総論が終わり、次回から各論に入っていく予定である。

     

    享楽から分離へ

     

    倒錯を論じるときにフロイトはほとんど常に主体が法を拒絶することを強調していた。主体が満足を諦めることを頑強に拒否することである。ある意味でフロイトはこのように倒錯をもっぱら倒錯者が得られ続けている満足という視点から考えているのである。

     

    注40) フェチシズムの利点についてのフロイトの注解を考えてみること。「フェティシュが成し遂げること、そしてそれを維持するものが何かが今やはっきりできる。それは去勢の脅威に対する勝利の印であり、去勢に対する防衛である。それはまた性的な対象として女性を耐えられるものにする特徴を女性に授けることで、フェティストが同性愛者になることを防いでいる。後年になり、フェティストは彼の性器の代用物から、なお他の利点を享楽していることを感じるのである。フェティシュの意味は他の人には知られないので、フェティシュは自制する必要がない。簡単に利用できるし、それに伴う性的な満足を容易に得ることができる。他の男たちが得ようと努め、そのために努力しなくてはいけないことをフェティストは楽々と手に入れることができるのである。

     

    ラカンはより古典的なフロイトの手法として的確だと認められるであろうやり方で倒錯を考察している。つまり、あらゆる他の活動と同様に、倒錯はそれがもたらす(間接的であろうが、直感的でなかろうが、)満足の視点から考慮されるべきであると同様に、法と分離の関係において倒錯がはたす機能の点からも考慮されるべきである。神経症の症候が何らかの代理の満足を患者に提供するだけではなく、「不安を拘束するために」も形成されるのと同じように、倒錯者の活動はも直接的な性的満足を得るだけの単純な目的で行われるのではない。

     

    注41) 明らかに、不安を拘束することは満足の視点からも理解される。快原則から要求される通り、不安を拘束することは緊張のレベルを下げるからである。それと同様に倒錯者が分離を制定することは、これから見るように、満足の視点からも理解される。 ほとんどの神経症者は、倒錯者が自分たちが人生で得られるよりもはるかに多くの満足を得ているに違いないと思っているし、実際多くの分析者も同じ罠に落ちている。そう思うことは、倒錯者の明白な「享楽への意志」(ラカンがそう呼んだように)が何によってそう仕向けられたのか、何に奉仕しているのか、何を隠しているのかを理解するのを止めてしまう。 フロイトが、存在してきたとよく仮定してきたと思われる父親、つまり、母親から息子を分離させるのになんの保留もしない父親(倒錯者はこのことが起こるのを頑として拒否する息子である)から、、権威を持って自身の問題を解決しようとしない、父親が子供に権力を振るうべきだと信じていない、子供は理性的な生き物で大人の説明が理解できると信じ、子供を妻に任せっきりにすることを好み、怖がられるのではなく愛されることを欲し、(おそらくその上)妻に自分の権威を切り下げることを許している平々凡々とした現代の父親に目を写してみると、むしろ異なった視点から倒錯者を理解しることができる。

     

    注42)「母の欲望」(母親の子供に対する欲望、あるいは子供の母親に対する欲望)が事実であるとすると、大概の場合その責任は母子関係の三者関係化と分離をもたらす父親に降りかかる。

     

    Perversion and the Law

     

    倒錯と法 ラカンの倒錯についての逆説的な主張の一つが、倒錯はなんでもありの、享楽を求める行動として現れることがあるのにもかかわらず、法を存在させようとするはっきりしない目的があるということである。つまり、大文字の他者を法(あるいは法を与える大文字の他者)としようとするのである。例えば、マゾヒストの目標は(多くはパートナーに不安を生じさせることによって)パートナーあるいは目撃者に法を宣言し、おそらく判決を告げるところまで連れて行くことである。倒錯者はある種の「始原的満足」ー ランガージュの主体としての彼自身の主体的な分割を超えること、を得られるように思われる(残りの我々のように、話す存在には、享楽のわずかのかけら以上のものを得ることさえできないと思われる。つまり、ラカンが「享楽は話す人誰にも禁じられている。」と言う通りである。)そして、倒錯者は神経症者が夢見るか、幻想するかしかできない、ある種の全体性、完全性を見つけているように思われるが、実際には不安が倒錯者のセクシャリティを支配しているのである。倒錯者の意識的な幻想はある種の終わりのない享楽だと思われるかもしれないが(マルキ・ド・サドの数多くのシナリオで、男性の性的器官は性的活動を再び始めるにあたりなんの制限もないのを考えてみなさい。)しかし、意識的な幻想と具体的な行動を混同してはいけない。具体的な行動は享楽に限界を置くように仕組まれているのだ。

     

    注43)ある人の実際の行動は、特に分析の初めにその人が気付いている幻想よりも、その人の基本的幻想をはるかによく表すことが多い。

     

    欲望は常に防御であり、享楽のある限界を超えて行くことに対する防御であり、それは倒錯者の欲望であれ例外ではない。例えば、マゾヒストは、幻想において、全てを大文字の他者のためにして、自分自身のためには何もしない。「大文字の他者を私に夢中にさせよう、大文字の他者がいいと思うように私を使いなさい」とマゾヒストは言っているようだ。しかし、この幻想を超えて、マゾヒストの狙いは少し違っている。と言うのはこの明白な利他主義つまり、「私には何もいらない、全ては大文字の他者に」というのを超えて、そこにはマゾヒストのためのものがある。防御としての欲望は倒錯者の基本的な幻想に現れるが、それは法に関して倒錯者の位置を示す。

     

    神経症者は法に関連して欲望する。つまり、神経症者の父親は子供はその母親を所有できないと言い、従って子供は無意識に母親を欲望する。一方、倒錯者は法の作用として欲望するのではない、つまり、禁止されているものを欲望するのではない。代わりに、倒錯者は法を存在させるようにしなくてはならない。ラカンはフランス語のperversionをもじって、pere-versionと綴り、父を要求し、父に訴え、父に父の機能を履行することを望んでいると言うことの意味を強調している。

    | 1.サイコセラピー | 11:44 | - | - | - | - |