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青葉心理クリニック

自粛の延長について
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    医療の歴史によると、前近代において現在の新型コロナ感染症のように熱が出て寝込んでしまった場合、物の怪が憑いたとみなしていた。憑き物は呪術によって落とすしかない。
    近代(日本では明治維新から太平洋戦争終了まで)以降は、まず熱の原因となった病原菌をつきとめ、それを薬によって直していく。そうやって病気を治して行く。
    現代の医療でもこの流れが継続されていたはずなのに、新型コロナ感染症に対する日本の医療は前近代に退化してしまった。病原生物の特定(PCRを筆頭に、抗体検査、抗原検査など)をしないで、発熱者の診断がつかない状態で放置して、自粛、外出規制、休業要請で対処しようとするのは、100年前と同じだといわれるが、まさに前近代の手法でしかない。PCRをしなかったために、誰が感染者で、誰が非感染者かわからない状況での自粛というのは、「K防疫」といわれる韓国の体制に比してあまりに情けないものがある。韓国でのPCRの実態をみると、クリニック等での検体摂取から、検査所でその検体を検査用のスピッツに入れるまでが手作業でその後は機械で完全にオートマチックで結果が出る。それに対して日本の(PCR検査の主体となっている)衛研でのそれは完全手作業である。検査数に差が出るのも当たり前である。クラスター対策をすれば広範囲のPCRはいらないとか、PCRを広範囲にすれば医療崩壊を招くとかを公的に発言されていた方々は、じつは現代医療を前近代医療に退化させよと叫んでいたことになるのである。カタカナ英語で隠されていた本質を探ると、そういう事でしかない。
    憑き物に対しての対策を練っていたのだから、呪術としての自粛、魔除けの札としてのアベノマスクが出てくるのも納得の行く事だと思う。本来の自粛の目的はウイルスは人から人にうつるので、接触を避けましょうという事なのに、いつの間にか、自粛が手段ではなくて目的になっている。そもそも居酒屋の営業が限定的ながら認められているのだから、自粛要請自体がいい加減であったのだが、そういうことに構わず、自粛警察がでてきたのは、戦前の自警団を彷彿とさせる。
    日本にはアビガンがあったのだから、「コロナに有効性が確かめられるまでは承認されない」などと寝ぼけたことを言っていないで、平常時と緊急時はちがうのだから、すでに抗インフルエンザ治療薬として承認は受けていたアビガンを直ちにコロナに対しても承認しないと、さらに貴重な人命が失われてしまう。たとえ、エコモで救命されたとしても、後に重い呼吸機能障害を残すことにもなりうる。このままではアビガンは宝の持ち腐れである。
    国民に緊急事態宣言の延長を課するなら、国はいまの政府の得意技である解釈改憲や法律の強引な改正を使って、或いは官僚に忖度させて、直ちにPCRの広範な実施、陽性者への速やかなアビガンの投与を行うことをすべきである。

    | 1.サイコセラピー | 10:05 | - | - | - | - |
    克己復礼
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      克己復礼

       

      安倍首相が緊急事態への対応を憲法にどう位置付けるかを憲法改正を目指す立場の人たちの団体へのビデオメッセージとして送ったとの報道があった。(5/3)

       

      数々の「忖度」問題、アベノマスク、十万円支給をめぐる予算組み替えなどの指導力のなさを露呈してきた安倍首相と憲法改正を語る安倍首相の違い、内容のみならず、それらを語るときの顔つき、話し方の違いにお気づきであろうか?

       

      何が違うのか?

       

      それは意志と情熱である。

       

      十数年前にこのブログでマルクスの「疎外」概念について吉本隆明の「カール・マルクス」を紹介したことがあるが、その本の中に「歴史の唯物弁証法的な理解方式は、マルクスの言うように人類の始原と共に古い、一つの現実理解の原則的真理である。だが原則的真理なるものは真理である限りに於て、人を納得せしめるだろうが、決して人を動かすことは出来ない。真理は唯情熱の形式を以って貫かれたとき始めて人を動かすのである。」という記載がある。

       

      思想は意識作用の表象である言語によってしか伝えることが出来ない。それだけでは、他人を動かすことは出来ない。人は無意識の欲望によって動くのである。だから、「思想は実践行為の原動としてこれを媒介することはない」のであり、「思想と実践を媒介するものは意志と情熱とに外ならない」のである。

       

      安倍首相は、コロナ禍に対しては、情熱も意志もないのであり、憲法改正に対してはそれらがあるのである。それがPCR検査や、自粛要請に対して語るあの泳ぐような視線の表情と検事の定年延長や解釈改憲を語る時の何かに憑かれたような視線のそれとの違いになって現れているのである。

       

      今回の緊急事態の対応について問題は憲法にあるのではない。限界を迎えた近代資本主義により、我々一人一人の中で、「公民」と「私人」が極端に分離してしまったことこそが問題なのである。法的根拠がなくても、社会、隣人のためにしなくてはいけないことを、自粛をするのが公民であり、自分の欲のために自粛しないのが私人である。社会の中で、家で自分の課題に取り組みながら自粛している人とパチンコ屋に行く人に別れている社会は「解放された社会」ではないし、また個人の中で、他人に自分がコロナウイルスをうつすことがないように自粛しなくてはいけないというのは分かっちゃいるけど、パチンコ屋に行ってしまうというのは「真に解放された個人」ではないのである。

       

      「真に解放された個人」とは、隣人愛を得た、つまり自分を愛するように隣人を愛することができるようになった人間であり、隣人を気遣い、それが自分を気遣うことと内心で対立することのない、そういう人間である。あまりにキリスト教的になってしまうので表現を変えると、孔子が論語(顔淵篇)のなかで「克己復礼を仁となす」ということがそれに相当すると思う。

       

      社会が、個人が公民と私人に極端に分裂していることが問題であるのに、その止揚を図らず、いたずらに憲法を改正して、外から強権的に緊急事態に対応しようとするのは本末転倒である。

       

      | 1.サイコセラピー | 06:27 | - | - | - | - |
      自粛の意味
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        自粛の意味


        さかんに自粛が叫ばれているが、残念ながら若い方々の合コンや老人のナイトクラブ通いは続いている様である。こういうことについての心理分析というのは寡聞にして知らない。「若い人はこういうことに従わないのがカッコいいと思っている」という意見をどこかで見たが、説得性はないし、それでは不良老人はどうなのかというと余計説明がつかない。

         

        この現象は、内向き、外向きという事でその意見よりは包括的に説明がつくと思う。これは心理学者ではなく、夜回り先生として知られる水谷先生の説であるが、「子どもは、いじめられると4通りの型のストレス処理をする。(1)いじめられると他の友達をいじめてストレスを晴らす型、(2)いじめられると学校からいなくなる型(非行に走るタイプ)、(3)引きこもる型、(4)自傷する型 である。」この葛藤処理の型の(1)、(2)を外向き、(3)、(4)を内向きとするのである。もっとも外向きが(1)、もっとも内向きが(4)ということになる。

         

        (1)、(2)が外に向かって何かをする、(3)、(4)が内に向かって何かをするということはおわかりいただけると思う。今の時代は、外向きの人を評価する。外に働きかける、例えば、クラブの部長をする、生徒会の役員をする、ボランテイアをする、そういう行為に学校は高い評定を与える。こういう行為が向いている、好き、楽にできるのが「外向き」の人達である。一方、「内向き」の人は、心が豊かになるという利点を持ち、相手の気持ちを察するということが得意なのであるが、こういうことは学校では滅多に評価されない。結果として、今の社会では社会から「外向き」の行動を取ることが求められ、その同調圧力が「内向き」の人が社会に入りづらい、社会が怖いなどの要因になっていると感じる。

        社会の圧力が今までと違い「自粛する」となった時、今までとは逆に、心理的には、外向きに人には辛い状況、内向きの人には対してそんなに辛くない、むしろ楽な状況が出現したのである。わかっちゃいるけど外出をやめられない人は「外向き」の人が多いのであろう。外向きの人がストレスが過大になった時、自分のみならず、他の人にとっても安全にストレスを処理する方法を自分で考えだして欲しい。「自分で」ということは外向きの人には得意なのだから。

         

        自粛がなぜ必要なのか? すでに自粛している人たちはここは飛ばして読んで欲しい。

         

        コロナウイルスは原則、人から人にしかうつらない。人に会わなければ感染することはない。だから、コロナウイルスに対するワクチンがない、抗ウイルス剤がない(とされる)つまり特異的な治療法がないので、感染を防ぐためには、できるだけ「人に会わないこと」しかないのである。それしかないのである。ここは自粛しない人を対象に書いているので、あえて実例を出す。「志村けん」である。人から人にしかうつらないのだから、彼にうつした人は必ずいるということである。そのうつした人にあなた自身がならないためには、「人に会うこと」をできるだけ避けるしかないのである。彼はタレントなので、芸のみならず、パンくん、プリンちゃんとの関係も知れ渡っている。日本ではPCR検査を広く行わないことを国家が決めた(在日米国大使館の文書から引用)のだから、全ての日本人は自分が感染者として行動しなくてはいけない。あなたが、そして私がうつすかもしれない目の前の人にも、志村けんと同様に、仕事も、家族があり、彼らにとってのパン君もプリンちゃんもいるのである。パン君、プリンちゃんから、志村けんを奪った犯人に自分がならないために、すでに「政治崩壊」している政府の言う事ではあるが、それに能動的に従い、自粛する事しか今はないのである。

         

        今回のコロナウイルス感染爆発は、我々が持っている「行動様式」エートスを変えることを迫っているのである。それを、new normal という人もいる。しかし、マックスウェーバーが言うごとく、エートスを変えるのは長年の教育によって、あるいは「カリスマ」によってしかないのである。行動様式を変えられれば、コロナウイルスは克服できるのである。グローバリゼーションと言われながら、今回のコロナウイルス感染が教えたことは、行動様式が、ITの発達にもかかわらず、以前のままであったことで、これを変えられるかどうかが今回の試練を克服できるかどうかのポイントであろう。

        | 1.サイコセラピー | 12:50 | - | - | - | - |
        本来的な生き方に気づくこと
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          安倍首相の休校などの要請以降、ライブ、スポーツが次々に中止や無観客試合になり、電通などは一人の感染者が出たことで会社全体が休みになっている。この要請自体は遅きに失したきらいはあるが、正しいと思う。様々な不都合はあるかもしれないが、韓国のような患者の増え方を防ぐには仕方がないことだと思う。ただこのやり方はあくまで感染者の増加のスピードを遅らせるためであり、期間が過ぎたら感染がなくなるというものではないことはくれぐれも理解されたい。「不要不急の外出を防ぐ」というのは、クルーズ船や、屋形船でわかるように閉鎖空間、換気が悪い、人と人の距離が近いというのが危険因子であるからだ。自分自身は一月中からすでにそういう生活をしているが、いまだに、心配のしすぎだとか、あえて元気付けるためにライブをやるという人がいる。無知というのは恐ろしいと思うが、「知らしむ」というのは大変なので、だからこそカリスマのある人が「よらしむ」ことが肝要なのだが、はたして今日の首相の会見はそれができたであろうか? かってスペイン風邪がパンデミックを起こしたときに米国でどういう対処をした州が感染を防げたのかを歴史に学ぶべきである。それがわかれば、有識者と呼ばれる人たちが言っていることが正しいかどうかはすぐに分かる。少なくとも首相の要請は爆発的な患者増加を阻止する必要条件ではあることは明白である。残念なのは首相の意向を首相補佐官が理解していなくて資金集めのパーティを開いたことであり、選手のみとはいえ東京マラソンをすることである。こういうことが首相のメッセージを国民に誤って伝えることになってしまう。
          ただ、北海道知事の言っていることの方が政治家としてはより模範的だと思う。こういう若い、体力があり、論理的に考え決断できる人が首相にはふさわしいと思う。

          繰り返しになるが、医者が必要とした人には直ちにPCR検査をすること、抗ウイルス剤は肺炎になるのを待つことなく、少なくともハイリスクの人には陽性が出た時点で投与すべきである。

          さて、なるべく外出しない生活をすると、法華経にある「人間は苦悩の集積の中に転々としながらも、遊び戯れ、娯しみに耽っているのだ。」という件を思い出した。頽落と言った方がお分かりいただけるであろうか。今自粛を求められているのは、「あそび戯れ、娯しみ」なのだと思う。それが全ていけないというのではなく、その人が本来的な生き方をそれらの「あそび戯れ、娯しみ」によってできないままに歳を重ねていたのであれば、多分7月ぐらいまでは続くであろう新型コロナウイルスの流行は、我々が非本来的な生き方をしていたことを分らせてくれるのに十分な時間をくれたのではないかと思う。

           

          | 2.エッセイ | 21:28 | - | - | - | - |
          新コロナウイルス感染症への私見
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            Pacem volo, bellum paro. ( われ和を欲す。ゆえに戦いに備えん。)聖アウグスチヌスの言であると伝えられている。「和」は、特に我々日本人には、伝統的な行動規範であり、普遍的な評価的概念であろう。「戦い」はその対立概念である。そうすると上記の聖アウグスチヌスの言葉と言われるものは、対立は絶対的なものではなく、常に流動化されるものであると言っていることになる。つまり、いかに美しい概念であろうと、現実社会には an sich 、つまりそれ自体で存在するような概念はないということである。(それ自体で存在出来るものは「神」のみであろう。)

             

            しかし、現在の社会の在り方を見ていると、安易に「絶対化」が唱えられているような気がしてならない。なぜこんな国になってしまったのか? それは、起きた出来事を、その歴史、体系の中で理解するという事ができていないせいだと思う。このことは、丸山真男が太平洋戦争後に「日本の思想」の中で、力説しているところである。この事はマスコミの報道を見ればわかりやすい。何か事件があっても、その事件を取り上げるだけで、その事件がどんな歴史、社会的文脈や動態で起きたのかは伝えない、それでは何回も無意味に繰り返す事になる。一見、歴史的に捉えている様な報道も、よく読むと先にイディオロギーがあり、それで演繹的に展開されている記事
            ばかりである。日本には思想史がなく、哲学史もないことが同書では強調され、それが日本を第二次世界大戦に進ませた要因の一つだと述べられている。「歴史に学ばない」と言うのは歴史の体系を知り、その体系の中に自分の思想を位置付けることがないと言うことである。歴史を知るということは、けっしてトレビア的な知識を持つ事などではない。

             

            現在の社会的問題は、まずは新型コロナ感染症で、さらに「不当な国有地払い下げ(森友)」、「桜」や「検事の定年延長」等々の政治問題であろう。そこに問題や登場人物は変われども、繰り返される「絶対化」の問題が認められる。

            新型コロナの問題については、すでに多くの「専門家」が連日様々なことを述べておられるので結論だけ述べさせていただくと、政治は結果責任であるから、まずはマクロでクルーズ船を隔離施設に使ったことの結果からみた是非、そしてPCR検査を全例にしなかったことの結果からみた是非、当初に米国が行った様な中国全土からの入国制限をしなかったことの結果からみた是非を判定し、それにより先ずは「頭を代える」ことで綱紀粛正をしないと今後どういう方法をとろうが、結果は期待できないであろうと思う。その上で、ミクロの問題として、クルーズ船内の公衆衛生的問題、PCRをしないで帰宅させた問題、などを議論して欲しい。安部首相がWHOの意見を根拠に、現政権の対応に何も問題はないと語ったが、時代遅れの事大主義的なのには苦笑するしか無いが、これも結局は「絶対化」であり、そこには弁証法的な、「否定」に媒介された展開がないから、国会の論戦は議論ではなく、「喧嘩」になっているのである。一方、いわゆる感染症の専門家といわれる田舎の大学の教授、厚労省の医系技官、スポークスマンと思われる人たちは、政権の「絶対」に対して忖度するしか無いので、「心ここに在らざれば、見えども見えず、聞けども聞こえず、食らえどもその味を知らず。」であると感じる。全ては現在の日本にはびこる「絶対化」が、国境を越え、しかも生死の問題としての新型コロナ感染症は、森友事件(同情はしないが、民間人が詐欺で捕らえられたのに、役人は不起訴という非対称を生じさせた)、「桜」(公文書の廃棄について、民間がしたら逮捕される様な件に対して、堂々と国会答弁さえしている破廉恥)、検事の定年延長問題(過去の国会答弁を勝手に解釈変更したこと)の様に、日本国内で数で押し切ればなんとかなるというものではなかった故に、このままの対応では、北朝鮮と同じレベルだと全世界からおもわれるであろう。日本社会に充満する自己欺瞞、それは精神分析的には、その正体は「倒錯」です。

             

            ついでながらその昔一時ウイルス研究所に身を置いた者として、私見を述べると、その日本政府が、治療薬としてアビガン(RNAポリメラーゼ阻害薬)の使用を検討しているというが、他にもRNAウイルスに効く可能性のある薬はあるわけ(例えば、抗インフル薬としては評判のわるくなったゾフルーザも可能性はあると思うのです。)で、製薬会社と政権の関係で、また変な忖度がない様にすることは、きちんと監視して欲しい。その上で、重症化を防ぐという意味では抗ウイルス薬が効くのは、おそらく感染早期、とてもじゃないが37.5度C以上が4日続いた後ではなく、できるだけ早く、ウイルス検査をして、陽性のものにはすみやかに可能性のある抗ウイルス剤を投与開始すべきだと思う。無駄が多くなるかも知れないが、爆発的流行、死亡者の頻発を防ぐにはしかたないし、そうする事が治療法の確立には必ず役に立つはずであると思うのです。いまはウイルス側の因子ばかり論議されていますが、患者さん側の因子として、重症化は肺でサイトカイン・ストームとよばれる免疫反応が起きるかどうかだと思います。その反応を抑える為には、できるだけ早期に原因となるウイルスをなくすること、それでも起きてしまった免疫反応が過剰にならない様にすること(免疫反応がストームとよばれる状態にしないこと)の両者が必要だと思います。後者に関して、感染症の専門家だけではなく、実際に間質性肺炎の治療に経験の多い医師の参加を図るべきです。

             

            | 2.エッセイ | 12:40 | - | - | - | - |