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青葉心理クリニック

伝えたい言葉
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    伝えたい言葉がある。それは「挫折は、そこから教訓を引き出すために、その原因を徹底的に分析することが可能なとき、つねに勝利よりも多くを教えてくれる、なぜなら、その結果は物事の根底に向かうことを強いるからである。」という言葉である。

     

    今年も小学、中学、あるいは高校時代から不登校でカウンセリングをさせていただいた何人かが、自分で目標を見つけ、そのための行為、行動として大学入試に臨まれている。そろそろ結果が出だしている。首尾よく合格された方も、残念ながら、カウンセリングをやめて受験までたどり着けなかった方もある。センター試験で失敗された方も、A日程、B日程と頑張られたが合格できず、今C日程に向けて頑張っている(であろう)方もおられる。全ての方に伝えたいのが、上記の言葉である。大学入試が終わると、結果のいかんにかかわらず、お会いできなくなる方が多いのでブログでお伝えしたい。

     

    私自身人生で「偉大なる勝利」など無いに等しい。挫折や危機の経験ばかりと言って良い。何も勉強や仕事に限らず、スポーツにおいてもそうであった。しかし、今自分の人生を省みた時に上記の言葉の重さを実感をもって感じている。「物事の根底に向かうことを強いる」ということの意味が若い人たちにはどうしても理解出来ないであろうことは、自分の経験からもわかる。特に、こういうブログへの記載という形で全ての若い人たちに伝えることは不可能であることも理解している。しかし、長い時間を、断続的であれ、ある意味共有してきた君たちであれば、今はできないかもしれないが、いずれ自覚してくれると信じたい。挫折など味わいたく無いのが当たり前である。順調に社会に適応していくことがどんなに楽に感じるであろうことか。だから挫折は人生に必要だなどと説教をする気はない。しかし、原因を徹底的に分析できたなら、物事の根底に向かうことが可能になるのは本当である。それがその人を世俗的な幸せにするかどうかは別であるが、自分自身で考える「真理」へ強いてくれるのは事実である。

     

     

     

    | 2.エッセイ | 05:07 | - | - | - | - |
    ファウストとメフィストフェレス
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      最近のブログでしきりに近代の終わりについて書いたが、来るべき時代は現在の退行的な風潮とは全くベクトルの方向が異なったものであろう。それは実は既に1968年の五月革命で問題として提示されながら、その解決方法を「社会主義革命」としたために誤って答えを出してしまったもので、だから世界を変えることができなかった、世界精神が味方しなかったのだと思う。社会主義、共産主義は結局資本主義のあだ花でしかなく、資本主義の付属物に過ぎなく、資本主義に取って代わるようなものではなかったということであろう。

       

      当時も資本主義的な実証主義が限界を迎えだし、それに学生が反応したのが原点ではないかと思われるが、結局はドゴールの老獪さと、デモクラシーというこれまた資本主義のしもべにより、青臭い学生の理想主義と、根は賃上げ要求に過ぎない労働者のデモとして原点が消されてしまった。しかし、当時学生が提示していたその原点は今の問題と同じではないのかと思う。

       

      1968年の日本は、思案橋ブルースという歌が流行り、佐世保で米国の原子力空母入港へのデモが行われた年である。前にも述べたがこの時に私は中学生であり、感覚的にそこに時代の切断があったようには思えなかったし、右肩上がりに経済成長していく日本にとっては五月革命の学生が唱えた「禁止することを禁止する」という主張はわからなかったのだと思う。あの時代は毛沢東思想がまだ生きていたり、社会主義者も元気で、まさに五月革命の目的は社会主義革命と当事者達からも主張されているが、「禁止することを禁止する」というのは社会主義にはなじまないことはお分かりになるだろうと思う。この「禁止することを禁止する」という主張がどういう背景から出てきたのかを知れば、それがアカデミズムの世界で、実証主義の負の部分が既にこの時代のフランスではっきり認識されていたことがわかるし、遅ればせながら現在の日本での問題が浮き彫りになると思う。

       

      話を精神分析の世界に限ると、ラカンは、当時のフランスでの代表的知識人であり、その彼が五月革命に対して、その時点でどういう態度を取り、その後の彼の理論の展開に五月革命に対するラカンの答えを求めるという視点が後期のラカン理論の理解には必要なのではないかと考えてきた。それに応えるためにラカンが最後に到達したと思われる地点は、シュレーバーの地点(「神の女になる。」)と極めて近いところなのではないかという疑惑をずっと持ってきた。未だにそこにはついていけないのであるが、パラノイアからR.S.I ではなく、逆にR.S.I からパラノイアに向かう遡及的な読み方がラカン理解の近道ではないかと思うようになった。それができたら、再びその疑惑を再検証したいと思う。 19世紀の科学の方法は自然をヴェールのかかったままで研究する方法で、ゲーテ流に言えば、ファウスト的やり方である。それに対して20世紀のやり方は、いわゆる実証科学であり、自然のヴェールを剥いで、赤裸々に自然を晒す、破壊する、メフィストフェレス的やり方である。前者は倒錯的、後者は神経症的と言えるかもしれない。そもそもの精神分析はまさに後者に属する。そうすると新しい時代は精神病的、シュレーバー的やり方なのかもしれないし、精神分析もそのようなものになるのかもしれない。

      | 2.エッセイ | 22:18 | - | - | - | - |
      大文字の他者 2
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        以前のブログで、ひょっとすると我々は近代の終わりに立ち会っているのではないかと書いたが、マクロな視点からの歴史の発生としては1968年のいわゆるパリの五月革命が、近代の終焉の始まりを考える上でのエポックメイキングであろう。私自身が当時まだ中学生であり、パリの事など知る由もなく、また同時代の日本での学生運動も終焉に立ち会った程度であり、体験としてではなく、事物自体とゆっくり付き合うという意味で歴史として近代を考えるという視点で見た場合に、ミクロの視点が透けて見える。

         

        権力は、マクロとして国家権力として赤裸々に現れる(現在の沖縄辺野古のように)だけではなく、ミクロとして人知れず市民社会の中まで侵入している。この後者のタイプの権力があることが自覚され始めたのが五月革命からなのである。このことはフーコーによって理論化されている。既に当時権力は上から降って来るだけではなく、我々の日常生活の中で、それと知られることなく、日々再生産され、悪性腫瘍の様に増大し続けていたのである。この後者の種類の権力、日常生活の場に潜む、小さな支配が、実は我々の自由を奪い、数々の問題を具体的に引き起こしていることを我々は実際の生活の場で自覚しなくてはいけないし、それが近代の構造的なものであり、我々の「大文字の他者」であり、そういうミクロな権力からの自立が次の時代を創るのではないか。

         

        かって連合国総司令官マッカーサーが、日本の隣組は全体主義の温床であるとして廃止を命じたが、それから60余年が経ち、様々な場、例えば町内会、PTA,  少年野球等にその温床が根深く蘇っていることは枚挙にいとまがない。近代の象徴である自由、平等が果たして本当に市民社会の中で実現されたといえるのであろうか。

         

        近代の自由、平等に分かち難く伴う、中心化、同一化に隠された権力構造を認め、それからの脱却を目指すのが、精神分析の目指すものであり、構造主義、ポスト構造主義の目指すものなのではないか。近代の実体主義の否定により、差異化によるミクロの事件の発生を通して、個人が、過去の構造化の中で生じながら、同時にその構造の外にもいる、つまり「内なる外にいる」ことが、近代の終わりの主体の存在様式なのではないか。次の時代の自由の条件が、差異性、非実体性、非同一性であり、それが近代以降の人間の自由、自律性を司るのではないか。近代が隠していたミクロのレベルでの権力構造を露わにし、それからの脱却を差異化を通して日常生活のレベルで個人が日々行うことで、マクロなレベルでの(近代が成し遂げられなかった)自由、平等を実現していく、ミクロからの変革がマクロな変革を主導するのが次の時代の現存在の存在様式になるのではないかと思う。

         

        | 2.エッセイ | 04:49 | - | - | - | - |
        トランプ大統領の精神分析
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          トランプ米国大統領による「入国禁止令」が物議を醸しているが、これを分析するにあたり、元々は第二次大戦後ナチスドイツの人種差別についてなされた精神分析の言説に是非紹介したいものがある。いろんな人が今まで人種差別者の分析として引用しているが、ファルス(想像的)という言葉を用いるので、一般の人たちからは敬遠されてしまうせいか、今の所トランプ氏の分析には登場しているのは寡聞にして聞かない。今回は社会学者で、少し前に亡くなられた作田啓一氏の「悪の類型論」を参考にして述べてみたい。

          余計なことではあるが作田氏の論文は非常に論理的であり、それを書かれた時の氏の年齢を考えると驚嘆に値する。自分もかくありたい望むものである。

          さて、まず「悪」の定義から入る。氏は「悪」を「主体の意志にもとづいて他者の福祉(good)を破壊する行為もしくは動機である」と定義をする。福祉とは生命、健康、所有、利益などを享受している状態であって、この状態の破壊が悪にほかならない。

          こう「悪」を定義した上で、社会学者としての彼の興味は悪の行為そのものではなく、その動機づけにあるという。

          「悪」を S. ジジェクの三類型論を再構成しながら、「ファルスの悪」に人種差別者の「悪」を当てている。その部分を引用すると、「人種差別者であるスキンヘッドは自分が属していない他の人種や種族や民族が望ましい対象を所有していると信じている。彼によればその対象が不当にアウト・グループにとって所有されているために、彼はその対象から受ける恩恵に預かることができないのである。だから彼がアウト・グループを攻撃するのは、それによって本来自分に帰属するはずの対象を奪い返そうとするためなのだ。」ということである。

          この引用した文章を精神分析的にパラフレーズすると、彼がファルスの悪の第一のタイプと再構成したものになり、それはこの論文の真ん中ぐらいのところで述べられている通り、「想像的ファルスを欠如している自己がそれを所有する他者を羨望する。それに想像的ファルスは本来は自己のものだという正統性の信念が加わると嫉妬となる。単なる羨望から嫉妬に移ると、他者への攻撃が生じる。この段階にいたって初めてファルスの悪について語ることができるのであり、単なる羨望にとどまる場合はまだ悪にはつながらない。」となる。

          ここまで述べたことで、トランプは典型的な人種差別者であり、自分が持っていないもの(想像的ファルス:ファルスは「究極的力」と読み替えるといいと思う。)を異民族は持っている(本当は持っていないのだが、持っていると思ってしまう。)と「羨望」し、さらにそれは本来は米国のものだという信念が生じ、盗まれたものだから返せという返還要求になる、その時点で「悪」になるということなのである。

          ここまで読まれると、2000年に書かれた氏の論文が、17年後に登場した米国大統領の心理(動機)を物の見事に予見していたことに気づかれると思う。トランプが差別主義者であることも問題ではあるが、米国の憲法は「カイザーを米国に出現させないこと」を強調していながら、だからこそあんな複雑で長期にわたる大統領選挙制度を定めているのだが、それでも民主的手続きを踏んでトランプが大統領になったことを忘れてはならない。ヒットラーも選挙で選ばれているのだ。

          こういう分析は、視点を変えると、韓国の窃盗団による対馬の仏像盗難事件にも応用が効くのである。優れた仮説というのはその射程が長いものである。そろそろ日本の社会学者による日本の近代の終わりの分析が出てきてもいいのではないかという気がしている。

          | 2.エッセイ | 03:30 | - | - | - | - |
          大文字の他者
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            大文字の他者 「大文字の他者」は、仏語ではAutre, 英語ではOther、マテームの中では AとかOと表記されるが、この大文字の他者との関係を巡り、精神分析は展開していくわけだから、人間にとって最初の大文字の他者は、子供にとっては生殺与奪の権利を全て握られている(大文字の)「母親」であり、言語の中ではシニフィカチオンの束とされたり、あるグラフの中では「シニフィアンの宝庫」と言われたり、またある場合には「神」と思える場合さえある。こうやって例を挙げていくと、なんとなく雰囲気的なものは把握できる。この雰囲気を、もう少しはっきりさせたい。 さて、昨今の世界情勢を見ると、近代資本主義が、そしてそれを裏打ちする民主主義が限界を迎えたように感じられる。国により、その限界の迎え方は異なるが、近い将来の化石燃料の枯渇、難民、英国のEU離脱、先進国の右傾化、米国のトランプ大統領の一国主義、こういうものが全て「近代」の終わりを告げているのだと思う。我々にとり、大人になってからの大文字の他者は、この「近代」ではないのかと考えるのである。

             

            では、「近代」とは何か?について、今村仁司「近代の思想構造」を参照しながら述べていきたい。

             

            歴史的には、近代とはフランス革命から今までの二百余年をいい、その前に準備期としての、ルネッサンスなどの二百年がある。後者は宗教戦争、つまり宗教改革と反改革との争いの時代であり、封建時代が終焉を迎え、近代への助走が始まった時期である。 現在が近代の終焉であり、現在の世界情勢は近代が終焉を迎え、まだ姿が見えない次の時代に対する不安による退行現象としての症状ではないのかと思うのである。つまり次の時代への助走を始めるための一時的な先祖返りとして今の世界情勢は理解されるべきで、現在を生きる我々の責任は、退行という後ろ向きの現象に与するのではなく、次の時代に向けた前向きの助走を模索することだと思う。近代の助走がルネッサンスに続く宗教戦争であったように、次の時代への助走は全体主義との戦いなのではないかと思う。 いささか先走りすぎたが、近代というのは歴史的な時代であるだけではなく、大文字の他者として我々近代を生きてきた全ての人の心に作用してきたのだと言いたいのである。 今村仁司は、社会科学の文脈で近代を、構造として捉えた。 ここでJ. Piaget による「構造」の定義を紹介すると、「構造とは一つの変換の体型である。」というもので、構造とは構造の中の諸要素の持つ特性とは違う「体系としての法則」を持っており、その変換の働き自体によって、保存されたり、豊かなものになったりする。しかし、これらの変換は、その体系の境界外に達したり、外部の要素に訴えたりすることはない。だから、構造は3つの特性、すなわち、全体性、変換、自己制御という特性を備えているということになる。 この意味で構造として捉えられた「近代」には5つの要素があると今村は言う。

            それは、1)自己との関係 2)他人との関係 3)人間と自然との関係 4)時間の意識 5)機械論的世界像 である。

            この辺で実際にカウンセリングをされている心理畑の方には、もう私が何が言いたいのかお分かりになるかもしれない。カウンセリングには、「心理学」よりも社会科学の方が実践的だと過去何度かこのブログで述べてきたが、この構造分析はそのいい例である。以下この5つの内容の説明をするが、これは「近代」の要素として、こうですと言うもので、それが真理だと言うのではないので、くれぐれもそこを忘れないで読んでほしい。

            1)自己との関係

             

            「近代自我論としてデカルト以来研究されてきた近代の自我、その働きとしての理性は認識や行為の原点、原理、根拠になっている。思考と実践の一切が自我から出発しており、観念的現象であれ実践的現象であれ、あるいはさらに自然現象であれ、それらは例外なく自我の理性的認識によって構成される。人間の行為は、それがどのような種類のものであれ、自我の決断から生まれる。社会的、政治的世界なども、原則的には自我の行為によって構成されるとみなされる。だから、近代人は、まず自己に関係する(反省する)ことなしには事実上は生きることはできない。たとえぼんやりしていても、近代人は実際には自己関係を最も大切な出発点にしている、少なくともそうした信念のもとに生きている。」 なぜそういうことになるのかというと、近代という構造が大文字の他者として働くからなのである。気づかない限りこの近代的自我で我々は生きていくことになる。これに異議を唱えたのがフロイトの無意識なのであり、それがフロイト以後に特に米国の自我心理学に代表されるような、自我を強化することで葛藤に打ち勝つという「後退」があり、そしてラカンによるフロイトへの回帰が行われるわけである。大文字の他者からの束縛を超えていくことが精神分析の目標であることがフロイトの無意識ではすでに意識されていながら、後継者たちはそれを忘れてしまったということなのである。ここで一言付け加えたいのが、例えば古代の人間と近代の人間ではその有り様が異なるということである。

             

            2)他人との関係

             

            「近代人の他者との関係は「市民社会」である。独立した個人が、個人的利害関係を中心として、他者と付き合うのが市民社会の関係のあり方である。市民社会の前の社会のあり方が共同体社会であり、いわゆる部族社会で、個人よりも部族、集団が優先される。」 本来近代とはこの意味での市民社会なはずなのだが、日本では未だに冠婚葬祭を含め、日常的なところでも部族社会が顔を聞かせていることを日々の仕事の中で痛感する。

             

            3)自然と人間の関係

             

            「自然との関係は生産活動のことである。近代以前の人間は、近代人のように生産を労働と考えていなかった。宗教的、道徳的な活動とみなしていた。生産は祈りのようなものであった。だから、近代以前では、人間が自然を征服するという思想基本的にはない。ところが、近代人は、そして近代人だけが、生産活動を労働と捉え、生産活動を持って自然を征服し、それによって人間を自然から解放するという思想を持つことになった。人類の解放という思想は、たしかに近代独自の思想であるが、それはまず自然からの解放であった。自然から解放された人間は一方では古い共同体を解体してそれから解放され、独立した個人となり、そうした個人が作る市民社会を理性によって管理することを第二の解放と考えてきた。自然からの解放に力点を置いたのは初期近代思想であり、社会の理性的管理に力点を置いたのが、第二近代ともいうべき19世紀以降のいわゆる社会主義思想である。」 要するに資本主義も社会主義も共産主義も近代に属する思想であり、原理的に自然との共生はありえないのである。 「自然征服的労働=技術体制のおかげで実現した物質的な豊かさを満喫しながら、自然との共生やエコロジーが可能だと信じるのは、おそらくは途方もない幻想であると言ってもいいだろう。」あえて付け加えるなら、ラカンのいう「幻想の横断」こそが解決策であり、それには解放という表現ではありながら、ある大文字の他者からの支配が単に別の大文字の他者の支配に変わっただけのことであり、どうやって大文字の他者の支配から手を切り、「自分の」欲望に従って生きていくかが我々の課題だということである。

             

            4)時間の意識

             

            「近代人は、独自の時間意識を持っている。まずは、人間の知性は進歩するという意識が芽生えてくる。知性は古い知識を乗り越え、新しい知識を蓄積していくと考えるのである。ここに知識の累積、蓄積、増大という意味での進歩の理念が生まれてくる。次に、知性と知識だけではなく、人間の生活が、道徳意識を含めて、累積的に拡大し、上昇していくという思想、すなわち多面的な領域にわたる人類の生活が全体として進歩するという思想が生まれてくる。ここに近代に特有の「進歩の歴史」の思想がうまれた。それが現代に到るまで社会活動をリードする有力な思想であり続けてきた。」

             

            5)機械論的世界像

             

            近代機械論は、空間も時間も等質的なものとして把握し、人間の自然な知覚構造を拒否して、自然も人間も機械をモデルにして、しかも等質的な物質としてみることで、精密な数学的認識を達成した。それは真実というよりも、一つの仮定、よくできた仮説であるのだが、いつのまにか、精密崇拝のゆえにか、「真実の」認識と見なされるようになった。加えて、「知性と物との一致または照応 adaequation 」に基づく「真理」の形而上学的理論が機械論的科学の基礎論を提供している。

             

            この5つの要素が近代という構造の中心的要素だと述べているのだが、近代人であれば、この5つの要素に多少の凸凹はあっても、いつの間にか身につけてしまう、結果自分にもともと備えられていたものであるかのように無自覚になってしまう要素なのである。刷り込みということなのだろうが、もし今が近代という時代の終焉であるならば、我々は、近代という大文字の他者と縁を切り、近代という幻想の横断を目指さなければならない。しかし、我々の時代は近代の助走がルネッサンス、宗教戦争であったように、次の時代の助走の始まりでしかないのだから、約束の地を望みながらそこには入れなかったモーゼのように消えていかなければいけないのかもしれない。

            | 2.エッセイ | 21:30 | - | - | - | - |