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青葉心理クリニック

母子癒着 その3
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    2. 心理学における母子癒着

     

    心理学に現れる母子癒着をすべて網羅的に述べることはできないので、ウィニコットの述べることを導入として、次回にユング派の精神分析家である河合隼雄の「母性社会日本の病理」へとつないでいく。

    ウィニコットの言う、ほどよい環境 good enough environment とは「最初幼児の世話という仕事にわが身を捧げ、次第に、自分を独立した人間と気づき直していく母親がいるということを意味」している。

    ウィニコットは「個人の情緒発達において、鏡の先駆は母親の顔である。赤ん坊は、母親の顔に眼差しを向けている時、一体何を見ているのか。赤ん坊がみているのは、通常自分自身であると思う。」と述べ、幼児の情緒発達における「環境」としての母親の役割とは、「赤ん坊に赤ん坊自身の自己を与え返す」ことだと説明している。

    good enough mother に対立する概念が perfect mother である。good enough は「ほどよい」という意味である。perfect motherはこどもの欲求が10あったとすると、10以上を与える母親であり、good enough mother とは7〜8を与える母親である。good enough mother が良いとされるのは、足りない2〜3を子供が我慢できるようになる、欲求不満に耐えられるようになる、そういう理由である。0しか与えないのは勿論ネグレクトであるが、それはここでは述べない。
    さて、もしperfect mother が現実に存在したとすると、子どもも母親もお互いがお互いから離れていくことは出来ないであろう。母ー子どもの閉塞した世界は何の不足もない満たされた世界であるからだ。しかし、これは神話の世界であり、現実ではない。母には別の欲望があり、子どもはそれによる母の不在の理由を知りたがるからである。それでもこの神話を目指す母と子どもはある。母親は他の欲望を喪失し、子供は母親に呑み込まれやはり他の欲望をなくし、受け身の状態で母親に支配されている。その状態がユングの言う意味での退行現象であり、お互いの心的エネルギーが自我から無意識の方に流れている、お互いが無意識の魅力に引き込まれていることに本人たちは気づかない。自我からエネルギーが流れ出て、自我がエネルギー不足になり、白日夢、非現実的な空想、感情に溺れ切った行動が現れてくる。エネルギーが本当に足りなくなると、うつ状態になり引きこもる。

    「非現実的な空想」という表現をしてしまうが、具体化をしないとその意味がわからない。例えば、就活をしなくても、いざとなったら起業すれば良いんだという若者がいるが、よほどの恵まれた条件がない限り、会社に務めることより起業が楽で、継続的にうまくいくことはないのである。就活がうまくいかなかったら、アルバイト、パートから始めればよいのである。就職できないことで思考に閉じこもり、自分を受け入れてくれない会社、社会を批判したり、自分を傷つけない自分が採用されない理由を「発明」する暇があるのなら、ボランティアでもいい、アルバイトでもいい、頭ではなく、体を動かすことを、行為、行動を、継続してやっていくことである。

     

    「いざとなったら起業すれば良い」というパロールが影響を受けやすい他の人の心に取り込まれ、浮遊するパロールとなることがある。そもそも根拠に乏しいパロールであるがゆえにそれを聞いた人の心の中で今までのその人の心的歴史の中に位置付けることが出来ない。何かの折にそのパロールが自分の考えのように、ある力を持って出てくると、その人は現実よりも「非変実的な空想」に支配されるようになる。母子癒着にある人が自分の状態を正当化するために言ったにすぎないパロールが、そばにいた人にそういう「感染」にも例えられるような事態を引き起こすこともある。それでも、母子癒着は外から見ると、母親はいつも子供のことを思う優しい母親であり、子どもはいつも母親のことを心配している親孝行な息子なのである。それで許されてしまうのが母性社会日本の病理なわけで、それを述べているのが河合隼雄である。


    さて、前のブログで、三島由紀夫がバタイユの「エロチシズム」を解説したものを引用したが、その中で「ウィーンの俗悪な精神分析学者」という表現があったが、それは誰であろうか? ウィーンといえば、まず最初に浮かぶのはフロイトである。しかし、以前のブログで触れたように、三島には精神分析を副題にした小説さえあり、その精神分析の元祖はフロイトなので、もしフロイトだとすると精神分析自体を否定することになり、それは考えにくい。そうするとユングしかないのではと思われるが、なぜユングなのか? それはユングがリビドーを性のエネルギーではなく、単なるエネルギーと考えたことにあるのではないかと思う。そう考えると、三島のいう「垂直のエロチシズム」ではなく、水平のエロチシズムになってしまうということなのだと思う。しかし、理解のための入口は、水平のエロチシズムで良いと思う。実践の場で、現実の母子癒着を見たときに、特にそれを問題として解決しようとした場合に、方向を垂直へと変えていかなければならないのである。垂直という方向があるのだということを頭に入れて、ユング的な考え方を入口にするのである。敵は手強いのである。ラカンのいう意味で「道徳」では無く、「倫理」に解決の道を模索することである。

    | 1.サイコセラピー | 05:16 | - | - | - | - |
    母子癒着 その2
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      1. 文学作品に現れた母子癒着

      バタイユの「わが母」、「マダム・エドワルド」、そして「エロチシズム」を解説して三島由紀夫が次のようなことを言っている。もちろんこのブログの趣旨は「わが母」にあるのだが、伏線として先に他の2つから述べて行く。

      生の本質は非連続性にあるという前提から出発する。個体分裂は、分裂した個々の非連続性をはじめるのみであるが、生殖の瞬間にのみ、非連続の生物に活が入れられ、連続性の幻影が垣間見られる。しかるに存在の連続性とは死である。かくてエロチシズムと死とは、深く相結んでいる。「エロチシズム」とは、われわれの生の、非連続的形態の解体である。(エロチシズム)

      バタイユがエロチシズムを解明していくとき、その手段として用いている概念が「禁止」である。

      禁止は元来、科学の事柄であった。(中略)禁止がなければ、禁止の関門がなければ、人間は明白な意識に到達することができなかっただろう。他ならぬ科学はその意識の上に築かれているのである。(エロチシズム)

      科学を以てバタイユは文化全般を代表させ、現在ある如き労働の世界を成立させた諸種の文化的禁止を手掛かりにして、今や忘れられているエロチシズムの深い闇の奥へ入って行こうとする。

      バタイユが、エロチシズム体験に潜む聖性を、言語によっては到達不可能なものと知りつつ、(これは又、言語による再体験の不可能にも関わるが)、しかも言語によって表現していることである。それは「神」という沈黙の言語化であり、小説家の最大の野望がそこにしかないのも確かなことである。そして小説に登場する神として女が選ばれたのは、精神と肉体の女における根元的一致のためであり、女の最も高い徳性と考えられる母性も、もっとも汚れたものと考えられる娼婦性も、まさに同じ肉体の場所から発してという認識に依るのであろう。

      万難を排して存在を断ち切るべく、自己を超越するなにものか、すなわちわが意に反して自己を超越するなにものかが存在しなければ、私たちは、全力を傾けて指向し、同時にまた全力を傾けて排除する不合理な瞬間に達することはない。(マダム・エドワルド)

      この「不合理な瞬間」とは、いうまでもなく、おぞましい神の出現の瞬間である。(なぜおぞましいのかは、実際にこの小説をお読みになることである。)

      けだし戦慄の充実と歓喜のそれとが一致するとき、私たちのうちの存在は、もはや過剰の形しか残らぬからだ。(中略)過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?(マダム・エドワルド)

      つまり、われわれの存在が、形を伴った過不足のないものでありつづけるとき(ギリシャ的存在)、神は出現せず、われわれの存在が、現世からはみだして、現世にはただ、広島の原爆投下のあと石段の上に印された人影のようなものとして残るとき、神が出現するというバタイユの考え方には、キリスト教のの典型的な考え方がよくあらわれており、ただそれへの到達の方法として「エロチシズムと苦痛」を極度にまで利用したのがバタイユの独自性なのだ。
      ここまで、精神と肉体ののあんなにおける根元的一致のためにバタイユの小説に登場する神として女が選ばれ、その場で主体に自己を超越することで、不合理な瞬間を創り上げることで神を出現させることが、小説の目的なのだということが理解されよう。

      ここでの主題の「わが母」は、倒錯と狂気の果てに、神聖な精神的母子相姦で終わる物語であるが三島は「この作品から、私が、近来の日本の小説でどうしても癒されなかった渇を、癒すことができたのは事実だった」と書いている。三島は、太宰治、夏目漱石、芥川龍之介と同様に母子関係が普通ではない育ち方(吉村孝明)をしているから、それゆえの「渇」なのであろう。

      「あたしは、死の中でまでお前に愛されたいと思います。あたしのほうは、今この瞬間、市の中でお前を愛しています。でもあたしがいまわしい女であることを知ったうえで、それを知りながら愛してくれるのでなければ、お前の愛は要りません。」(わが母)

      人を堕落に誘うとは、真理にめざめさせることであり、彼女はもはや究理者ではなくて、その信じる真理の体現者でなければならず、要するに究極的に「神」でなければならないのである。これがバタイユ小説のおそらく根本的な構造である。

      では「母」とは何か。母は、神に向かってわれわれをいざないゆく誘惑者であり、神自身ですらあるが自分の体現する最高理性へ人を誘い寄せる通路が、官能の通路しかないことを知悉しており、しかもこの官能は錯乱を伴っていなければならないのである。彼女の「愛」は残酷であり、自ら迷うことなく、相手を迷わせ、滅亡の淵に臨ませ、相手の官能的知的欲求のギリギリの発現を厳しく要求し、叱咤する。「お前はまだあたしを知りません。あたしに到達することはできませんでした。」母の堕落の真相を知り、その中に巻き込まれて気息奄々たる息子に答えて、母が言うこの言葉は正しく神の言葉である。

      人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。その「本心」こそ、バタイユのいわゆる「エロチシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロチシズムの深淵を、われわれに切り拓いて見せた人こそバタイユであった。

      母子癒着とは、このようなエロチシズムの深淵に関わることなのであり、精神的知的母子相姦のデヌーマンなのだということを最初に理解した上で、心理学的な記載を理解されるべきだと考える。

       

       

       

      | 1.サイコセラピー | 06:11 | - | - | - | - |
      母子癒着 その1
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        はじめに


        先日の世界IBFフライ級タイトルマッチ ムザラネvs八重樫東 について、まず身体を見て八重樫がトレーニングをきちんとしてきたことが分かった。真面目な人間なのであろう。彼はアウトボクシングもできる選手である。ついでながら、彼の属する大橋ジムの大橋会長も現役時代はアウトボクシングであったと記憶している。序盤のラウンドはアウトボクシング的に闘い、ほぼ五分五分で経過したが、何を迷ったか途中でいきなりインファイトになり、間も無く撃沈されてしまった。相手のムザラネの表情を変えないボクシングは秀逸なもので、上り坂にある選手で、八重樫は2年ぶりぐらいの試合だったはずで、年齢的にも勝敗は仕方ないのである。しかし、なぜあの時点でインファイトにという思いが残った。マスコミの激闘王というネーミングに応えようとしたのだろうか?
        この後、知人で日大でボクシング部だった方にこの疑問をぶつけた所、「八重樫は打たれる快感に酔っているのだ。アウトボクシング的にラウンドを重ね、終盤に打って出るという作戦を頭では分かっていても、いいパンチを食らうと打たれる快感が目覚めて,撃ち会ってしまう、結果KOされてしまう。もしこのままボクシングを続けたら、間違いなくパンチドランカーになる。こういう選手にとっては殴られることに、麻薬中毒のように中毒しているのだ。」といわれた。

         

        この話を聞いて頭に浮かんだのが、「オデュセイア」の中で描かれているセイレーンの歌声に魅せられたのと同じ状態が惹起されるのだということである。その歌声は恐ろしくも魅惑的で明らかに死に導く歌声であり、それが大他者としての母の歌声であり、現実的ファルスなのである。これが母子癒着の恐ろしい側面であり、そこに死の欲動が顔を見せているのではないのかと思うのである。かって三島由紀夫が「垂直のエロチシズム」と表現したのと同じ方向の出来事なのではないかと感じた。

         

        河合隼雄の「母性社会日本の病理」をこの「母子癒着」の導き手として使わせてもらおうと思っているが、この本は理論と現場のバランスのとれた、優れた著作で、読み手が現場での経験を重ねるにつれて、理解が深まる、或いは全く新しい理解を生成すると思う。ただ、時代もあるし、思想的背景もあるので、方向が垂直ではない、或いは母子癒着を描くには優しすぎると思うのである。ユング派の考え方に、ラカン的な考え方を接木するのはまさに木に竹を継ぐことになるかも知れないが母子癒着の恐ろしさを知って頂くためには他に手段はないように思う。以下「母性社会日本の病理」に垂直の方向を加える方法で述べていこうと思う。

        | 1.サイコセラピー | 10:09 | - | - | - | - |
        歳の終わりに
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          25日に帰省し、12年ぶりに盛岡で歳を越すことになった。今朝から雪になり、降り続いている。仙台は雨なのかもしれない。温暖化がどこまでがイディオロギーかわからないが、海に近い所は最低気温が0度にならず、内陸部は最低気温が0度以下、降雪という傾向が認められる。昨日26日に昔なら雪で閉鎖される紫波町の折壁峠に昨日山歩きに行ってきた。雪はほとんど無く、古傷の右膝に加え、先週左のアキレス腱の部分断裂をしてしまい昔のようには歩けなかったが、それでも沢に沿った林道を5kmぐらい歩いた。12年の間に木が成長し、鬱蒼とした森となり、沢の水もあくまで透明で、全てを忘れさせてくれる。しかし、動物がいない。この感じは10月の南昌山と同じである。折壁峠は北上山地、南昌山は奥羽山地で、盛岡をはさんで反対側になるからこの傾向は局地的なものでは無いのであろう。人間は気づかないレベルでの自然の破壊が密かに侵攻しているのかもしれない。なんでも温暖化のせいにするのではなく、林業従事者、ハンター、農業者、登山家などの意見を集約して検討する事が必要なのではないか? 残された時間はそんなに多くないのではと思う。

          キルケゴールのジレンマに「人生は時間を遡って理解されるものだが、人生は時間を下って生きなければならない」というのがある。言い換えると、人生は出来事の後でなされる解釈に頼らざるを得ないのだから、あらかじめ予想されるような単純なパターンみたいなものはないのだと言うことなのだ。人類の歴史的出来事、たとえばフランス革命を生きた人たちはそのときには自分達が激動の時代を生きているということには気づいていなかったということなのである。時間を下って生きる人間の宿命なのであろう。ニュートン力学は、初期条件さえ決まればそれで結果は決まるが、歴史、人生とはそういうものでは無いのであろう。というか、ニュートン力学的な展開のなかに、突然襲いかかる全く違うメカニズムが潜んでいるのであろう。

          自然を守る、環境を守るといえば、反対する人は少ない。しかし、地球温暖化に関して、自然破壊、環境破壊は温暖化を防止すればそれで叶うというのは、あきらかなイデオロギーではないか。温暖化だけが自然破壊では無いし、化石燃料だけが温暖化の原因では無い。地下での蠢きにこそ地球上の突然襲い掛かる出来事の原型があるのである。

           

          | 2.エッセイ | 11:52 | - | - | - | - |
          「 思考の中に閉じ込められる 」ということ。
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            今年一年を振り返って「思考に閉じ込められること」について書いてみたい。

             

            ファウスト 第一部に、「 思索なんかする奴は、枯れ野原で悪霊にぐるぐる引きまわされている動物みたいなものです。そのまわりには美しい緑の牧場があるのに。」という言葉がある。フロイトにも、「 思考に閉じ込められて行動出来なくなるのが神経症の特徴である。」という記載がある。

             

            強迫障害(強迫観念+強迫行為)がその極端な型なのだと思うが、強迫観念だけという人もかなり見られるし、元々は強迫とは縁のなかった方でも、鬱で会社を休んでいると、寝ている時以外は一日中休むきっかけとなった事から、それと結びつく過去の出来事や、犯人探しを思考し続ける、それも全く同じ思考を繰り返す、結果、休んだことで却って精神状態が悪くなってしまう方がかなりおられるように感じる。


            何かトラブルがあったときに、しっかり考えて問題を解決するというのは、一つの方法であり、否定する気はないが、それで解決できない問題もあるのだ。特に強迫観念のような思考状態のときは、考えるではなく、行為、行動をすることが出来ないと思考のループから逃れることが出来ない。まず、思索をやめて美しい緑の牧場に出ることである。自分にとって、なにが緑の牧場になるのかを、自分の行為、行動を通して知ることである。思索、思考を通してでは断じてない。ここが一人では出来ないのであり、そこがカウンセラーという他人の存在理由なのだと思う。

             

            今年ももうじき暮れるが、今年は通常のカウンセリングではうまくいかない方と様々な本を一緒に読んでいくという方法をやって来て、本人のメンタルな面での自覚的変化は少ないが、実際の行為、行動面での変化はかなり認められる方が複数おられ、一緒に声を出して本を読み、一緒に思考するという方法も、それが行為、行動の変化のきっかけになれば有効なものだと感じている。

             

            そういう本の一冊に丸山真男の「日本政治思想史研究」というものがあり、そこにヘーゲルからの引用で次のような文章がある。

             

            「 シナおよび蒙古帝國は神政的専制政の帝國である。ここで根底になっているのは家父長制的状態である。一人の父が最上に位していて、われわれなら良心に服せしめる様な事項の上にも支配を及ぼしている。この家父長制原理はシナでは国家にまで組織された。・・・・・シナにおいては一人の専制君主が頂点に位し、階統制の多くの階序を通じて、組織的構成を持った政府を指導している。そこでは宗教関係や家事に至るまでが国法によって定められている。個人は道徳的には無我にひとしい。」

             

            この文章を読み終えた後で、ある男性は「自分は道徳的には無我でした」と私に語った。その後の彼の行為、行動はまさに「雷に打たれたように変わった」のである。個人に関することなのでこれ以上は書けないが、このヘーゲルの記載に自分の姿と、自分が属していた組織の支配を読み取ったことで、本当の意味で自分に気づかれたのだと思う。いずれすぐれた医者になられるとおもう。

             

            一方で「道徳的には無我である」女性で、常識的な知識にある部分だけ欠如のある人が、お子さんを持つ年齢になってから家父長原理の組織の中ではそれなりに生きてこられたのが、無我では済まなくなる場面で様々な軋轢を経験され、それをトラウマだと称し、社会不安による引きこもりの相談でいらしたことがある。この方は数年のカウンセリングで自分を変えつつあったし、社会的な場面にも限定的ながら出られるようになったのだが、常識的知識が自分に欠如していることや道徳的に無我であることはどうしても認めることが出来なかった。おそらくこういう方は同じ文章を読ませても、文章の中に自分を見つけることができないのであろう。

             

            前者について、もっと言うと、「対象が自我を作る」、それも「対象が無意識的な自我を作る」ことがあるのだ。脱線するが、おそらく、前者の対象関係はその時点で想像的なものから、象徴的なものに変化し、後者の場合は想像的なものから動かなかったのだろうと考えている。それは恐らく前頭前野の働きが象徴的なものに達したかどうかの差なのだと思うが、まだエビデンスはない。恐らく、象徴的な対象関係を持てるようになる為には、自分を映す対象との距離を取れるようになる事、そうする事で対象関係がはじめて止揚できるのだろうと思っている。だから、強迫的な思考、あるいは「思考の中に閉じ込められる」のは対象関係が想像的なものにとどまっていることがその根底にあるのではないかと思う。この辺が来年の自分のテーマになるように感じている。

             

             

             

             

             

             

            | 1.サイコセラピー | 12:48 | - | - | - | - |