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青葉心理クリニック

認知モード理論 その1
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    脳科学から出てきた理論の中で認知モード理論(theory of congnitive modes ; Stephen Kosslyn)が人格の理解、人格を変えていく方法として実用的だと考えるので、それを説明するうえでも必要と思われる脳科学的な知識の説明から入りたい。

     

    従来は大脳を前頭葉、頭頂葉、後頭葉、側頭葉と分けてきたのであるが、少なくとも肉眼的にはっきり分けられるのは、前頭葉と頭頂葉の間が中心溝で、側頭葉と前頭葉がシルヴィウス溝で分けられているだけで、頭頂葉、後頭葉、側頭葉の間にはこのような溝は存在しない。だから植村先生が言われるように、頭頂葉、後頭葉、側頭葉は機能的に分割できないひとかたまりの物、それに抵抗があるのであれば、頭頂葉ー後頭葉ー側頭葉コンプレックスとでも捉えた方が良いと思う。さらに、このコンプレックスを感覚統合脳、前頭葉を表出脳、辺縁系を中心とした側頭葉、頭頂葉の内側部を辺縁脳ととらえるのは作用から大脳を分節する上では優れた考え方だと思う。そして、哲学でよく言う、知・情・意を、それぞれ感覚統合脳、辺縁脳、表出脳に割り振るのである。人間が行動変容を起こすためには、知と情が共に意に働くことが必要になる。

    こう捉えることで、認知モード理論(theory of cognitive modes)で知られるStephen Kosslyn の 『Top Brain , Bottom Brain 』が理解しやすくなる。


    まず、知情意の知に関して。

    体性感覚皮質に対する体性感覚連合野の様に、低次機能を担当する皮質がうけた感覚情報を高次機能を担当する皮質が「統合」しているが、この統合は皮質間だけではなく、視床が複雑に関与して、前々回のブログで述べた意識を形成する、膨大な情報量と視床ー皮質コンプレックスにとって必要なものである。

    視覚においても同様の関係が視覚皮質(ブロードマンの17野)と視覚連合野(情報はブロードマンの18野→19野の順で伝わる)に認められる。ただし、この連合野での情報の伝わり方に2方向があり、頭頂葉方向に向かうものは視空間の認知に、側頭葉に向かうものは物体認知を
    司る。先に述べたKosslynのTop Brain , Bottom Brain はこの方向に基づいた分け方なのである。

     

    次に、知情意の意に関して。

    運動皮質、運動前野の関係は感覚皮質、感覚連合野の関係に似ているが、運動野にはほかに補足運動野と言うのがあり、運動前野は随意運動に、補足運動野は自動運動に関係している。

    スポーツ理論は、昔このブログのメンタルトレーニングで少し述べたが、ここがポイントなので、機会があれば脳科学から見たスポーツ理論を述べたいと思っている。

     

    最後に、知情意の情に関して。

    情は、情動と感情を分けて考えることが大切である。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだというダマシオの理論の理解のポイントはここにある。脳科学的にも、情動は扁桃核が、感情は島皮質が司るのである。又、情の領域には外部からの刺激だけではなく体からの刺激も入力する。(Trieb を思い出してほしい)

    情の回路には、感情の興奮を司るPapezの回路(情動と記憶の感やすると言われた)と、感情の抑制を司る Yakovlev(ヤコブレフ)の回路がある。前者は扁桃体を、後者は前頭前野を結節点とする閉鎖回路である。前者の中心が海馬であり、その海馬は中間期記憶(最大2年まで)を司る。

     

     

     

     

    | 1.サイコセラピー | 13:33 | - | - | - | - |
    マインドフルネス
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      マインドフルネス

       

       

      1995年ぐらいに、Zen Keys ( Thich Nhat Hanh)という本を読んだ。第一章が マインドフルネスの修業なので、マインドフルネスという言葉の意味は現在心理畑で言われるマインドフルネスよりも、Hanhの文脈からは「気づき」としてインプットされている。

       

      さて、現在、心理の現場、たとえば就労支援施設でも心理療法として使われているマインドフルネスについて、前述の意味とは完全には一致しないと思うので便宜上、Hanhの言うマインドフルネスは「気づき」、心理療法としてのマインドフルネスはそのままで表現する。

       

      脳科学から分かってきたことを心理療法に結び付けていったのがマインドフルネスである。脳科学から脳の安静時のエネルギー消費が、全エネルギーの20%に達していて、これを減らす事が出来れば、脳に余裕が出来、余ったエネルギーを使って脳を元気にすることができると考えた訳である。それでは、何もしてないときに使われる脳のエネルギーは何に使われているのか?それが、過去への悔い、未来への不安なのだということなのである。そこで、もし現在に集中する事ができれば、無駄なエネルギー消費を減らせると考えた訳だ。この「今に集中すること」ということで、脳科学と禅の方法論、気づきが結びついたわけである。禅の方法論ではない、もっと機械的で、即効性のあるやり方として経頭蓋磁気刺激法という磁力で左前額部を刺激すると同じ様な効果がある方法もある。米国での成績は禅の方法論も、この磁力をもちいる方法も有効性は同じぐらいとされている。日本では後者は高度先進医療で、保険の適応になるにはきつい縛りがあり、私費で受ける方が多い様だが、残念ながら私が知る範囲では有効ではなかった方が多い様に感じる。

       

      初めに述べたThick Nhat Hahn の本を読むと、『「はっきり目覚めている」生き方から生まれてくる深い気づき(ここは mindfullness ではなくて、awareness )を通してこそ、存在の真理があらわになってくるのだ。』とある。ここでなぜ mindfullness ではなく、awareness が使われているのかというと、深い気づきだけではまだ mindfullness(気づき) には至らないということで、本来のmindfulness (気づき)は「存在の真理があらわになる」ことなのである。その意味で、心理療法としてのマインドフルネスは道半ばということなのである。

       

      はじめて心理療法としてのマインドフルネスを知った時に感じたのは、たとえ脳科学が無くても、既にHahnの教えは、マインドフルネスを凌駕しているということである。たしかに脳科学的な説明はより説得性は有るだろうが、今までになかった方法、たとえば磁気による刺激の様なものはないのである。だから本当は「存在の真理があらわになる」所にこそ気づきの本質があるのではないかと思う。awarenessを通してmindfullness にいたる方法論を脳科学から新たに生み出すことが求められているのではないかと思う。

       

      | 1.サイコセラピー | 17:42 | - | - | - | - |
      精神分析と脳科学
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        精神分析学と脳科学

         

        精神分析学と脳科学は親和性が高い事は、例えばフロイトの「科学的心理学草稿」で述べられている通道Bahnung の概念と脳科学でのニューロン同士を結合する同期発火の概念を比べると実感されるであろう。この両科学の間の時間的距離を考えるとフロイトの炯眼には驚くしかない。ただもし後者が前者の単なる新バージョン、言い換えに過ぎないのなら、カウンセリングの現場ではなんの意味持たない。そこで、両科学の親和性の低い領域を考える事で、お互いに補合えるところを明らかにして、現場での新たな展開の可能性を考えたい。

         

        精神分析(特に断らない場合、精神分析とはここではフロイト、ラカン、ビオン等のものを言う)は firstperson perspective 一人称的な見方 から成り立っている(平たくいえば、自分はこのように欲望するから、他者もそうするだろうということを公準として成りたつ)のだが、脳科学は thirdperson perspective 三人称的な見方、つまり客観的な科学的な見方から成り立つ。前者を主観、後者を客観といってもいいと思う。今の世界はひたすら科学的であること、客観的であることに純化しよう、させようというバイアスがかかっている。

         

        医学部の基礎科目の中に生理学というものがある。普通、二つに分かれ、一方は動物生理学と呼ばれ、神経系、運動系を、もう一方は植物生理学と呼ばれ消化系、循環器系を扱う。後者を「はらわた」、前者を「それ(はらわた)以外のもの」に分類する斬新で、かつ実学的な発生学もあるが、いまはそれには触れない。その動物生理学の生理学たる所は、活動電位、つまりニューロンが電気信号を創り出す物理化学的な仕組みの解明だと思う。そして、それが教科書として書かれた脳科学の本、例えば Principles of Neural Science ( Eric R. Kandel ) でも多くのページを割かれている。活動電位の作られる原理は昔、生理学で習ったことと同じであるがその仕組みの解明は分子生物学的にはるかに詳細なものになっている。まさに thirdperson perspective である。こういう解明が、科学的な病気の原因の解明や治療に結び付く事だけでも価値があることはお分かりいただけると思う。だから、医学自体がより客観的に、より科学的に動いて行くのは当然のことなのである。それを認めた上でなのだが、科学には限界がある、つまり科学は科学が証明できることしか扱わない、扱うことができないのである。thirdperson perspective が扱うことの出来ないものが我々の『生きている世界』にはあるのではないか、firstperson perspectiveと third person perspective の発展的統合が必要なのではないかと思うのである。

         

        比喩的にいうと(魂の実在を認めるわけではないが)、今の医学の進み方は、『仏作って魂入れず』になってはいないかということである。仏が third person perspective , 魂が first person perspective ということである。

         

        どうしても従来の精神分析が説明できないこととして、なぜ意識が生じるのかという問題があると思う。最初に述べた科学的心理学草稿でも意識自体については説明できていない。脳科学自体もこの問題に答えていない、むしろ問題として避けているようにさえ感じてきた。たしかに例えば脳幹網様体の働きの様に意識の必要条件については述べられてきたかもしれないが十分条件については無言であったと思う。

         

        しかし、先日、秋保温泉の中のピザ屋さんの本棚に、「意識をめぐる冒険」(クリストフ・コッホ)という本を見つけ、ピザが焼きあがるまでの時間軽い気持ちで読みだしたのであるが、その中の「意識の統合情報理論」というところを読んで、まさに目からウロコが落ちる思いがした。詳しくは同書を読んで頂きたいが、要点のみ引き写すと以下の様になる。


        1. 一瞬一瞬の意識経験は、とてつもなくたくさんの種類の他の意識経験の可能性を除外するという意味で、情報量がとてつもなく多い。
        2. 意識の内容は高度に統合されている。意識がいつもひとかたまりである(統合されている)のは、脳内の関連し合う部分同士が非常に複雑に因果的に相互作用しあい、一つの大きな皮質➖視床複合体を作っているからだ。

         

        このことから、あるシステムが意識を経験するためには、膨大な情報量があり、その上でその膨大な情報量が(因果的に)統合されていなくてはならない。全体として統合された時に初めて生じる情報というものがある。つまり、[意識レベル] = [全体が生み出す情報量] ー [部分が生み出す情報量の総和] 。

         

        こういうゲシュタルト的な考え方というのが、てんかん発作の時の意識消失を説明できるという観点から、直感的ではあるが、私はこの考え方に感激したのである。余計なことでは有るが、その本を読むのをやめられなくなり、ピザ屋さんから借りて5日で読了した。

        この様に脳科学を導入して精神、神経の世界を分析していくことは、firstperson perspecitive,精神分析、カウンセリングには避けられない、ある意味必然なのではないなかと思ったのである。では、一方、脳科学、thirdperson perspective に足りないものはなんなのか ?

        それは、脳科学の用語を使うとクオリアである。クオリアという表現はできても、或いは多面次元に浮かぶ結晶という表現は出来ても、それでもクオリアというものを「感じること」はできないという事実なのである。即自的に存在する事が thirdperson perspective にはできないのである。

         

        人間は離人症になることができるが、コンピューターはどうあがいてもなれないのである。

         

        精神分析家、心理学者、カウンセラーは、自分の基盤に脳科学の見方を、脳科学者は精神分析、心理学の見方をそれぞれ取り入れる事が急務であると思う。

         

         

         

        | 1.サイコセラピー | 06:23 | - | - | - | - |
        ブログ更新
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          ホームページの更新が管理会社がその部門を急に一方的に閉じてしまったため、アクセスに必要な情報も担当者が退社と共に持ち去ってしまい、現在新しい管理会社を探しているのだが見つからず苦慮している。加えて筆不精から、ながらくブログの更新をしてこなかったため、すでに閉鎖されたホームページだと思われてしまったので、本当に久しぶりにブログを書かせていただく。

          自分の考え方が、精神分析,それもラカン的なものに大きく影響を受けていることは今までのブログを読んでくださった方にはお分かり頂けると思う。普通の医者をセミリタイヤして、現在の仕事を始めてすでに11年を数えるが、対面法、自由連想法、脳科学等を用いてきて、12才から76才(開始年齢)の方々に「元気になっていただく」ということでは、面映いが、かなりの成果を上げてきたと自負している。特に自由連想法の効果は特筆すべきものがあると思う。ただ昔、指導医から言われたことではあったが、効果の上がらない人たちがおられ、それぞれ幾つかの特徴を共通に持っている複数の群というものがある。それをどうするか、それを課題にやってきたと思う。

          フロイトの快、不快原則でもよくわかるように、精神分析自体が資本主義(の精神)と一致するところが多いために、現在のような資本主義が限界を迎えた以上、精神分析は次の時代の精神を持ったものには変わっていかなくてはならないと思うが、それがドゥルーズのような方向なのかどうか、あるいは他のものなのかはまだ五里霧中である。一方、米国での fMRI などによる脳科学の進歩が著しく、もともと強迫性障害(OCD)に関しては、精神分析よりも脳科学的な説明、治療を用いてきたが、ますます他の分野にも広げていく必要を感じてきた。「10,000時間の練習で人は専門家になる」と言われるが1日5時間の勉強を6年続けるとその域に達する。すでに15年の時間が経過して、より脳科学を取り入れることが今後の方向になりそうなだと広言してもいいと思う。実は最初にfMRIに接したのは、もう15年前の、しかも医療現場ではなく、米国のスポーツの場であった。脳科学による治療のエッセンスは、人間のあり方、性格は気質(遺伝)と個人的経験で、神経回路が形成されることで決まるが、その神経回路は可塑性がある、その可塑性により、その人のあり方、性格は変えられるということだと思う。しかも遺伝についてさえ、エピジェネティクという考え方も出てきているので表現型は変えうるのだと思う。

          以前のブログで心の世界はやがて量子力学の言葉で語られるようになるのではないかと書いた記憶があるが、コヘレンスという考え方をとれば、脳の複雑な神経回路ではデコヘレンスということが起き、確率的な存在は均されて古典物理でいいということになるようである。

          話は戻るが、全てに有効な治療法などないのは当たり前で、モノアミン仮説に基づく薬物療法でも有効率100%というのはない。精神療法も同じである。

          ここ1〜2年で経験したことであるが、同じタイプの方が何人かおられたのだが、お一人のみ登場していただくと、うつということで相談に来られた方で、過去に薬も様々なカウンセリングも無効であったという。お話しをしてみると、普通の主婦という感じで、確かに、現在の操作的な診断基準でうつと診断されると思う。人の目が気になる、集団が怖い、親の育て方が悪い、等などよくあるパターンである。個人情報なので詳細は書けないが、ある時、この方に基本的な常識、日本語の「常識」より、英語の common sense (共通感覚)がすごく狭い範囲で欠如しているところがあることに気づいた。例えば日本人の集団で、Aさんという人にこの感覚が欠如していると仮定したら、間違いなく異物扱いを受けるであろう。そういうことに基ずく対人関係の問題、疎外感、ひいてはうつの発症ということがあるのだ。後から考えてもその欠如に、親を含めた家族が気がつくことは難しいだろう。何気ない会話の中で出てきたことで気づいたので、私が気づいたことも普通には偶然と言えよう。こうなると、薬や心理カウンセリングの問題ではなくなる。敢えて言えば教育の問題である。常識が色々な面で欠けている人はすぐに気付かれるが、こういう狭い範囲のみで欠けているのに気づくのが難しいし、その欠けている常識を補うのはさらに難しい。過去に様々な心理療法、薬でもよくならなくて、最後は親のせいになっていたのであるが、実は本当の原因には、狭い範囲の commom sense の欠如とでも言うしかないモノだったのである。共感しても、セロトニンを上げてもよくならないのは当たり前ということになる。

          もう一人別のタイプの方に登場していただくと、若い素敵な女性だが、うつで動けなくなるということで来られたが、結局子宮内膜症による血清鉄の低下、フェリチンの低下によるモノだった方がある。向精神薬は無効で、紹介したT病院で、フェリチンと気分障害について理解されている先生に診てもらい、鉄剤の投与のみで一ヶ月で回復され、この4月から新しい職場で働いておられる。鉄が足りないのが原因なのに、向精神薬を重ねたりしてもよくならないのは当たり前ということになる。

          どうしてもよくならない方というのは確かにおられるが、諦めないこと、想像力を駆使することが必要な場合もある。

          | 2.エッセイ | 14:43 | - | - | - | - |
          『他者』
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            『他者』

             

            前に述べたように、ストレスチェックの余波で、いわゆる正常者でストレスを過大に抱え込んでいる方とお話をさせて頂く機会が増えてきて、だからこそ以前より強く感じるようになったのが『他者』である。何が過大なストレスの源かと言うと、抽象すると『他者といかなる関係を結ぶか』という事になる。病気が関係してくると他者との関係を結べないレベルになる訳だが、いわゆる正常者であるために、関係自体は持つ事は出来るが、それが過大なストレスの原因になる場合、単純化しても、当事者同士のどちらか、或いは両者が悪いと言うこともあるが、どちらも悪くないが関係が悪いとでも言うしかないものもある。これを対象関係論で、即ち、対象の持ち方に、部分対象と全体対象を置き、前者は幼稚な、後者は成熟した関係として、人格障害を理解して行くやり方で解釈するのではなく、より根源的に考えてみたい。

            説明に便利なので、他者をラカンにしたがって、小文字の他者(今あなたの周りにいる普通の他者たち)と 大文字の他者(神様にイメージされるあなたの生殺与奪の権を我が物にしているような圧倒的な他者)とに分けてみたい。大文字の他者として初めてあなたに現れるのは「母親」(カッコを付けたのは、母親の役割をしてくれる人と言う意味で、別に生物学上の母親である必要も無いし、女性である必要もないからである。)である。幼少時、寄る辺ない存在であったああなたにとって「母親」はあなたの生存を支配する絶対的な存在であった。そういわれると、頭では理解するかも知れないが、大きくなったあなたにとってはなかなか実感はなくて、今付き合っている人のほうが大切であろう。なぜそうなのか、そうならないと大人といえない、社会にでれない、いろいろな便宜上の理由はあるが、そのより始原的なことを考えてみたい。ここから比喩を用いた説明になる。絵画の技法に vanishing point 消失点というものがある。平面的な絵画に立体感を与えることができる技法であるが、われわれが普通に景色を見る時に脳裏に浮かぶその像も、普通は3点の消失点をもっている。ちなみに消失点が一つの絵画として、ダヴィンチの「最後の晩餐」がある。絵の中央のキリストの頭の上にそれが設定されているが、勿論、その絵には像としての消失点は無い。絵には描かれていないが、その絵を陰で支えているもの、それが消失点であり、その様なものが「母親」なのである。なぜ大文字の他者が必要なのか?それは消失点がその絵に秩序を与えるように、あなたが母親の子宮といういわばエデンの園から放逐された後に、魑魅魍魎としたこの世界を理解可能にしてくれるのが「母親」であり、あなたにとっての始原的な大文字の他者なのである。ただ、この始原的な大文字の他者は、貴方にとって不安を引き起こすものでもある。つまり、在ー不在が不規則なのである。在のときは貴方の世界に秩序をもたらすが、不在のときには世界は再び混沌としたものになる。もちろん栄養摂取の欲求という生物的な理由もあるのだが、世界に秩序を与えてくれるという「母親」の存在が、あなたが成長して大人になって、その大文字の母親が、非人称の大文字の他者(例えば、神のイメージ)に代わったとしても、始原の大文字の他者としての「母親」の痕跡は残る。この「母親」との関係を基にして、その後の父親、同胞、友人、恋人というような小文字の他者との関係が成り立ってくるのである。あなたの世界の消失点が「母親」だということが理解されたときに、この「母親」が気まぐれであるという事が、あなたの世界の後世に影響を与える。なぜ気まぐれであるのか?そこに母親の欲望がある。子供にとって、「他者」がいつもそばにいてくれることが、世界に秩序を与え、この世界にいてもいいことを保証してもらえることなのである。しかし、母親の欲望は気まぐれである。いつもあなたを欲望しているわけではない。あなたは何とか、母親の不在の時も世界に秩序を与えたい。気まぐれな母親の欲望を、気まぐれではないものにしないとあなたの世界に秩序がなくなってしまう。そこで、母親の欲望の先に「父親」(これも実在の父親ではなく、『大文字の父親』)の欲望を見なくてはいけなくなる、ここで「父の名」が必要になり、そしてエディプスコンプレックスにつながるのだが、今はそこには触れない。

            むしろ、母親の欲望が気まぐれである事はあなたには悪いことのように感じられるかも知れないが、もし気まぐれではなくてあなたしか欲望しないとか、気まぐれなのにあなたがそれを気まぐれではないと勝手に理解してしまったら、「他者」はあなたが望むようにあなたを欲望してくれると思うであろうし、そうなると、大文字の「他者」の欲望はあなたにとって確信的なものに成り、ひいてはその延長線上にある、小文字の他者」の欲望も確信的になる。それはパラノイアの世界ではないか。「母親」の欲望が気まぐれであることで、母親に欲望されることを欲望するあなたの欲望は、必然的に弁証法的展開を見せる事になる。この「揺れ」(恋占いを花弁で行うことをイメージしていただけると分かりやすいと思う。)こそが、あなたが、他者の欲望を欲望する時に、他者の欲望に幅を与えてくれるわけで、単純化の誹りは免れないであろうが、その幅の無いのがパラノイアの対人関係、幅が狭過ぎるのが、今問題にしている正常者の悩める対人関係、そもそも「他者」が存在しないのが精神病の対人関係ではないのかと思う。

             

            最後にきわめて情緒的ではあるが書きたいことがある。このブログを書いている時にBSの番組で、何十年かぶりでマイク眞木が歌う「バラが咲いた」(浜口庫之助 作詞作曲)を聞いた。単純な歌詞とメロディーであるが、「バラが咲いた」ことに気付く時が、世界に秩序が与えられた時、つまり「母親」という消失点が与えられ、世界が秩序をもった日、それにより寂しかったぼくの庭(世界)が明るくなった、ずっと咲いていてほしかったのに、いつの間にか「バラが散った」、その時が母親という大文字の他者を失った時で、にもかかわらず世界が秩序を失わないのは、庭が、世界が「母親」という赤いバラによって明るくなった体験があったために、庭は再び淋しくなったが「寂しかったぼくの心にバラが咲いた」からなのであろう。想像的なものとしての「母親」を失っても、象徴的なものとしての「母親」を心に持つ事で、世界はある幅の揺れを保ちながらも安定するのであろう。昔、小此木先生が、喪が開けるとはそれまで亡くなった人を思うとその人が具体的な姿で心に現れるのが、脱人格化された時、、つまり姿形を伴わず、完全に自分に同一化されたときが「喪が明ける」事だという意味のお話をされたのを、これもまた何十年ぶりかで思い出した。

            | 2.エッセイ | 11:01 | - | - | - | - |