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青葉心理クリニック

本来的な生き方に気づくこと
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    安倍首相の休校などの要請以降、ライブ、スポーツが次々に中止や無観客試合になり、電通などは一人の感染者が出たことで会社全体が休みになっている。この要請自体は遅きに失したきらいはあるが、正しいと思う。様々な不都合はあるかもしれないが、韓国のような患者の増え方を防ぐには仕方がないことだと思う。ただこのやり方はあくまで感染者の増加のスピードを遅らせるためであり、期間が過ぎたら感染がなくなるというものではないことはくれぐれも理解されたい。「不要不急の外出を防ぐ」というのは、クルーズ船や、屋形船でわかるように閉鎖空間、換気が悪い、人と人の距離が近いというのが危険因子であるからだ。自分自身は一月中からすでにそういう生活をしているが、いまだに、心配のしすぎだとか、あえて元気付けるためにライブをやるという人がいる。無知というのは恐ろしいと思うが、「知らしむ」というのは大変なので、だからこそカリスマのある人が「よらしむ」ことが肝要なのだが、はたして今日の首相の会見はそれができたであろうか? かってスペイン風邪がパンデミックを起こしたときに米国でどういう対処をした州が感染を防げたのかを歴史に学ぶべきである。それがわかれば、有識者と呼ばれる人たちが言っていることが正しいかどうかはすぐに分かる。少なくとも首相の要請は爆発的な患者増加を阻止する必要条件ではあることは明白である。残念なのは首相の意向を首相補佐官が理解していなくて資金集めのパーティを開いたことであり、選手のみとはいえ東京マラソンをすることである。こういうことが首相のメッセージを国民に誤って伝えることになってしまう。
    ただ、北海道知事の言っていることの方が政治家としてはより模範的だと思う。こういう若い、体力があり、論理的に考え決断できる人が首相にはふさわしいと思う。

    繰り返しになるが、医者が必要とした人には直ちにPCR検査をすること、抗ウイルス剤は肺炎になるのを待つことなく、少なくともハイリスクの人には陽性が出た時点で投与すべきである。

    さて、なるべく外出しない生活をすると、法華経にある「人間は苦悩の集積の中に転々としながらも、遊び戯れ、娯しみに耽っているのだ。」という件を思い出した。頽落と言った方がお分かりいただけるであろうか。今自粛を求められているのは、「あそび戯れ、娯しみ」なのだと思う。それが全ていけないというのではなく、その人が本来的な生き方をそれらの「あそび戯れ、娯しみ」によってできないままに歳を重ねていたのであれば、多分7月ぐらいまでは続くであろう新型コロナウイルスの流行は、我々が非本来的な生き方をしていたことを分らせてくれるのに十分な時間をくれたのではないかと思う。

     

    | 2.エッセイ | 21:28 | - | - | - | - |
    新コロナウイルス感染症への私見
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      Pacem volo, bellum paro. ( われ和を欲す。ゆえに戦いに備えん。)聖アウグスチヌスの言であると伝えられている。「和」は、特に我々日本人には、伝統的な行動規範であり、普遍的な評価的概念であろう。「戦い」はその対立概念である。そうすると上記の聖アウグスチヌスの言葉と言われるものは、対立は絶対的なものではなく、常に流動化されるものであると言っていることになる。つまり、いかに美しい概念であろうと、現実社会には an sich 、つまりそれ自体で存在するような概念はないということである。(それ自体で存在出来るものは「神」のみであろう。)

       

      しかし、現在の社会の在り方を見ていると、安易に「絶対化」が唱えられているような気がしてならない。なぜこんな国になってしまったのか? それは、起きた出来事を、その歴史、体系の中で理解するという事ができていないせいだと思う。このことは、丸山真男が太平洋戦争後に「日本の思想」の中で、力説しているところである。この事はマスコミの報道を見ればわかりやすい。何か事件があっても、その事件を取り上げるだけで、その事件がどんな歴史、社会的文脈や動態で起きたのかは伝えない、それでは何回も無意味に繰り返す事になる。一見、歴史的に捉えている様な報道も、よく読むと先にイディオロギーがあり、それで演繹的に展開されている記事
      ばかりである。日本には思想史がなく、哲学史もないことが同書では強調され、それが日本を第二次世界大戦に進ませた要因の一つだと述べられている。「歴史に学ばない」と言うのは歴史の体系を知り、その体系の中に自分の思想を位置付けることがないと言うことである。歴史を知るということは、けっしてトレビア的な知識を持つ事などではない。

       

      現在の社会的問題は、まずは新型コロナ感染症で、さらに「不当な国有地払い下げ(森友)」、「桜」や「検事の定年延長」等々の政治問題であろう。そこに問題や登場人物は変われども、繰り返される「絶対化」の問題が認められる。

      新型コロナの問題については、すでに多くの「専門家」が連日様々なことを述べておられるので結論だけ述べさせていただくと、政治は結果責任であるから、まずはマクロでクルーズ船を隔離施設に使ったことの結果からみた是非、そしてPCR検査を全例にしなかったことの結果からみた是非、当初に米国が行った様な中国全土からの入国制限をしなかったことの結果からみた是非を判定し、それにより先ずは「頭を代える」ことで綱紀粛正をしないと今後どういう方法をとろうが、結果は期待できないであろうと思う。その上で、ミクロの問題として、クルーズ船内の公衆衛生的問題、PCRをしないで帰宅させた問題、などを議論して欲しい。安部首相がWHOの意見を根拠に、現政権の対応に何も問題はないと語ったが、時代遅れの事大主義的なのには苦笑するしか無いが、これも結局は「絶対化」であり、そこには弁証法的な、「否定」に媒介された展開がないから、国会の論戦は議論ではなく、「喧嘩」になっているのである。一方、いわゆる感染症の専門家といわれる田舎の大学の教授、厚労省の医系技官、スポークスマンと思われる人たちは、政権の「絶対」に対して忖度するしか無いので、「心ここに在らざれば、見えども見えず、聞けども聞こえず、食らえどもその味を知らず。」であると感じる。全ては現在の日本にはびこる「絶対化」が、国境を越え、しかも生死の問題としての新型コロナ感染症は、森友事件(同情はしないが、民間人が詐欺で捕らえられたのに、役人は不起訴という非対称を生じさせた)、「桜」(公文書の廃棄について、民間がしたら逮捕される様な件に対して、堂々と国会答弁さえしている破廉恥)、検事の定年延長問題(過去の国会答弁を勝手に解釈変更したこと)の様に、日本国内で数で押し切ればなんとかなるというものではなかった故に、このままの対応では、北朝鮮と同じレベルだと全世界からおもわれるであろう。日本社会に充満する自己欺瞞、それは精神分析的には、その正体は「倒錯」です。

       

      ついでながらその昔一時ウイルス研究所に身を置いた者として、私見を述べると、その日本政府が、治療薬としてアビガン(RNAポリメラーゼ阻害薬)の使用を検討しているというが、他にもRNAウイルスに効く可能性のある薬はあるわけ(例えば、抗インフル薬としては評判のわるくなったゾフルーザも可能性はあると思うのです。)で、製薬会社と政権の関係で、また変な忖度がない様にすることは、きちんと監視して欲しい。その上で、重症化を防ぐという意味では抗ウイルス薬が効くのは、おそらく感染早期、とてもじゃないが37.5度C以上が4日続いた後ではなく、できるだけ早く、ウイルス検査をして、陽性のものにはすみやかに可能性のある抗ウイルス剤を投与開始すべきだと思う。無駄が多くなるかも知れないが、爆発的流行、死亡者の頻発を防ぐにはしかたないし、そうする事が治療法の確立には必ず役に立つはずであると思うのです。いまはウイルス側の因子ばかり論議されていますが、患者さん側の因子として、重症化は肺でサイトカイン・ストームとよばれる免疫反応が起きるかどうかだと思います。その反応を抑える為には、できるだけ早期に原因となるウイルスをなくすること、それでも起きてしまった免疫反応が過剰にならない様にすること(免疫反応がストームとよばれる状態にしないこと)の両者が必要だと思います。後者に関して、感染症の専門家だけではなく、実際に間質性肺炎の治療に経験の多い医師の参加を図るべきです。

       

      | 2.エッセイ | 12:40 | - | - | - | - |
      カウンセリングの倫理 1
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        マックス・ウェーバーが「キリスト教(プロテスタント)の精神が資本主義をつくった」と言っている事はこのブログで今までにも何回もふれている。また現在我々が生きている時代は、フランス革命の射程にある。デュルケームが「社会は個人に対して内在的かつ超越的である」といったが、たしかに欧米では個人に対して超越的でかつ内在的なのはキリスト教の精神であり、資本主義であり、フランス革命の精神であろう。しかし、日本では明治維新後は和魂洋才と言えば聞こえは良いが実際には、和魂を抑圧し、勿論洋魂は入れないで洋才のみの輸入(例えば日本の民法に関してフランスの民法学者に丸投げしようとした歴史上の事実で示されている。)をしたために、江戸時代までの土着の文化は輸入された西欧文化によって席巻されてしまい、両者に通路はない、心でも同じように、意識的な自我は西洋化されながら、土着の感情的直接性は抑圧され、その自我と無意識との間に連絡の無い状態ができてしまったのである。自己分裂である。これは高じると倒錯、自己欺瞞を生じさせる。個人でも社会でも外からの強制でしか時代に追従できなかったことが、社会でも、個人でも軋轢を生じつづけてきたのが我々の歴史であったといえると思う。先日、ゴーンさんが逃亡して、逃亡した理由に日本の人質司法をあげ、以前から問題視されていた事が再び俎上に上がり、森法務大臣は弁護士でありながら、日本の司法には問題はないと公式に発言したのは記憶に新しいところだが、自白を強要し、得られた自白をもとにして調書を作る、自白しないと拘留期間がとめどなく長くなる、保釈しない等というやり方は、じつは中世日本以来綿々と続いてきたものであり、欧米の人権思想からは理解されないものなのである。江戸時代の牢屋で、自白させるために石を抱かせる場面や、吊るし上げて棒で叩いて、気絶すると水をかけてまた叩く場面は鬼平犯科帳などの時代劇ではお馴染みだが、取り調べの形は変わっても、その精神は今だに中世のままだという事なのである。推定無罪ということは高等教育を受けたものならば誰でも知っている事であるが、それが現実には全く存在していない如くなのがこの国なのである。羊頭狗肉ともいえる状態のままである。伊藤博文が西欧化を進めるにあたり、欧米諸国には基督教があるが、わが国にはそういうものが無いので、天皇制を持ってそれに代えようとしたが、第二次世界大戦後の天皇の人間宣言以来、そこは空白のままなのである。食うや食わずだった戦争直後は食べるだけで精一杯であり、その後の朝鮮戦争による特需の経験で味をしめ、経済成長がその代わりになったのか、以来問題の解決に経済問題の解決をもってするのがこの国の習いになってしまい、それが倒錯や自己欺瞞となり、やがてIRの様な賭博を許す品の悪い国家が出来てしまった。
        日本は、個人の確立の前に社会の絆を教育される社会なので、この様な社会のあり方が、個人に強く影響してしまうのは先に述べたデュルケームの言の通りである。レーニンが言うように「人を変えるのが本当の革命」なので、この社会で個人の悩みを解消するのは、まずこの様な社会をまともなものにするしかなく、そのためには革命しかないのであろうが、それを今の社会で期待するのは世界精神の担い手が現れるまで不可能なのであろう。そうなると、人を変えることで社会を変えると考えなくてはならない。その課題として与えられるのが、個人の心の分裂にどの様にして橋をかけるのかという事になる。無意識が人を動かす力だと考えるのはマルクスもフロイトもおなじであるが、前者は制度が人間の中に無意識をつくり、後者は欲動が無意識を作ると考えたわけだが、以下後者の立場で記述して行く。
        フロイトが言うように、真に個として確立した人間から構成される社会だけが連帯を形成できるのであるから、個人の内部にある分裂を解消するために、内部のコミニュケーションの言語を媒体にして行えるようにするというのがカウンセリング(精神分析)の目的ということになる。それで内部のコミニュケーションができると、不安がすくなくなり、精神が活性化され、その事で他者とのコミニュケーションが可能になると考えるのである。
        服従は何も生み出さない。服従する為に、己を抑圧すると、それは自己に不誠実になる事なので、他者にも不誠実になるわけで、相互的なコミニュケーションは不可能なのだ。言語を媒体としたコミニュケーション、言語化がうまくいかないのは、感情と言語が接続する事ができないからである。自由連想法により、無意識と意識が折り合いをつけられるようになると言うのはこの事なのである。感情は抑圧されている限り言語化できない。自由連想法で感情が、欲望が少しづつ言語化できる事で抑圧が減って行くのである。
        こうして目の前で起ることに関して、一喜一憂せず、自分で責任を持つということができるようになり、それで初めて他者との関係がクリアになるのである。
        先ずは、自分を変えようとすること、そしてその責任を己一人で持つこと、それが求められるのである。

         

        | 1.サイコセラピー | 14:18 | - | - | - | - |
        新年雑感
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          例年より正月休みが少し長いので、盛岡周辺の山に連日行こうと思っていたが、休みの前半にアキレス腱の部分断裂をしてしまい、思わずその後の休みは故郷での静養の日々となった。急にする事がなくなり、しかも思うように歩けないので、相対的にエネルギーの余剰が生じ、そのエネルギーが内省を生じさせているので、心の赴くままにそれをただ傍観者のように見ていた。多少論理の飛躍や断裂があるのは勘弁いただいて、そのまま書かせていただく。

          まだ普通の医者として仕事をしていた頃、痴呆が始まり出した方のご家族によく申し上げていた事を思い出した。子育ては朝日を見ているようなものなのに対して、老人介護は夕日を見ているようなものと言っていた。それを思い出した時に、改めて、では頂点はどこなのであろうか?と考えた。出た結論が、頂点はその後には下降しかないのだから、頂点は中年と言われる年代なのであろう。そうするとそこまでの生き方と、その後の生き方を変えなくてはいけないし、事実今思うと、変えざるを得なかったのだと実感する。それまでの視線は上向きで、仕事を持つ、家庭を持つ、家を持つ、財産を作る、地位を得る等々今となっては懐かしい血湧き肉躍る日々である。中年というのはそれらが得られたあるいは得られる事が確実になる時期である。血湧き肉躍る時期は過ぎているが、わかっていながらその残影を追い求める時期でもある。そうやって生きている日々は、多少うまくいかない事があっても、生きる事それ自体は悩みではなかった。忙しいと言いながらその中に逃避し、自分の内面とは直面する事を忘れていた日々であった。しかし、ほんのちょっとした事が、その時期を今まで通りに通り過ぎようとする自分の足を止めた。はじめはその訪れは、内面ではなく、外的な出来事であった。しかし、当時は漠然と、いまは明確にかんじるのだがそれは無意識の警鐘であった。それまでの人生は、地位や財産を獲得するために、自分の属する社会から求められる役割を演じていたのだが、自分では自分の可能性の実現をしているように感じていた。しかし、可能性は無限でも、一個人としての人生は極めて限定されている。ユングの言葉を借りると、われわれは生まれた時から選択を重ね、その選択のたびに選ばれなかった方は捨てられたと思っているが、その選ればれなかったものは無意識に存在し続けるのである。その生きられなかったものの声を聞けるようになるのが中年以降の時期なのだと思うのである。いわゆるカミングアウトをなぜするのかというと、社会に適合するために自分の無意識的欲望に反して選択したものを、改めて選び直す事で、可能性としては存在しながら実際には生きられなかったものを取り戻す事で楽になる、生き直す事ができるという事なのであろう。それと似た事ができるのが人生が下降に向かう中年期以降なのだろう。とにかくそれまでは忙しすぎて、内面の声など聞こえないのである。だから、内面はその時点では本人にとっては未知の世界であり、それを拒否して今まで通りに生きていこうとする中年以降の人達が大多数なのは仕方のない事なのかもしれない。しかし、人間は有限なものであり、本当の意味での自己実現を目指して生きる事がなければ、有限性、非連続性の証としての個人の死に対処できるのであろうか?すでに人生の前半で目標としたものが手に入っているのに、その後も同じ目標で生きようとする事が、いわゆるニヒリズムの主因なのではないのか?三島由紀夫がニヒリズムについて「われわれが今ニヒリズムと呼んでいるものは、バタイユのいわゆる「生の非連続性」の明確な意識である。そして主知主義的努力は、その非連続性に耐えよ、という以上のことは言えないのである。」といっている。いわゆる実存主義も主知主義に属するから、結局「耐えよ」という以上のことは言わないのである。だから自分で自分の人生が下降に転じたのを知り、そこで生き方のモデルチェンジをしていくことが必要だということに気づかねばならない。ではどうやって? うまく伝わるかどうか自信はないが、意識的には思わぬことをした後で、急に楽になる事を経験されたことはないであろうか?これが無意識的欲望が満たされた時に経験されることである。あるいは、それまで同じことを繰り返し繰り返し考えていたのが気づくと全く消失している、そういう経験でもある。誤解を恐れずにいうと、夢がなくなりながら、夢見ている時よりも楽になる、そういう経験である。この経験から初めて無意識的欲望がなんだったのかが事後的にわかるのである。もちろん、この一回の体験ですべてが完了するわけではないが、この経験も持ち、かつそれをはっきり意識すると、認識する事が変わって行くきっかけになるのだ。こういう経験をお持ちの方が、ここに書いたことをお読みになれば、感覚的にお分かりになると思う。この経験が中年期以降のいわゆるイニシエーションなのだと思う。
          この経験がない人はどうしたらいいのか? ここからは思弁的になるのだが、毎日の生活に意味を見出せなくなった時には、ユングの言う意味での退行、三島のいう「垂直のエロチシズム」に触れる事なのだと思う。未知の世界、可能性としては存在したが選択されなかった世界に触れる事だと思う。しかし、それは身の破滅にならないのか?ユングは創造的退行といったが、そういうものがあること、そしてそれが創造的であることは認めるが、退行をそんなに調子よくコントロールできるのであろうか? 病的退行と創造的退行を分けるものは何なのか? それは、その人が想像界の住人なのか、象徴界の住人なのかだと思う。無意識の世界は精神の世界より肉体の世界に近い。「垂直のエロチシズム」でわかるように肉体の世界での退行は身を滅ぼす。想像界の住人は身を滅ぼすのである。それは病的母子癒着の世界でもある。精神の世界、象徴界での退行が創造的退行と言われるものなのだと思う。それは再生の道であり、意識において行う東洋的な二分法からの象徴的な離脱なのだと思う。象徴的な自他分離の世界から、一時的に自他不分離の世界に戻り、その後に再び自他分離の世界に戻ることである。平たく言うと、自分が選択してきたものと、捨てられ無意識に蓄積したものとの折り合いをつけて行くことである。

           

          | 2.エッセイ | 06:23 | - | - | - | - |
          母子癒着 その5
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            4. 終わりに

            最後に、若干の追加を述べたいと思う。ここまで母子癒着について述べてきたことを読まれた方で、なぜ、母ー子だけが取り上げられ父親が出てこないのかとか、母ー子と言っても全てが母親ー息子についてだけ述べられるのかについて疑問に思われた方もあるかもしれない。それは、猿にも近親相姦のタブーがあるらしいことがわかってきて、猿では父親というのは誰だかわからない、だから進化の時間軸では母親ー息子のタブーの関係が動物にまで遡る起源を持つ発生学的に一番古い歴史を持っていて、父ー娘、兄ー妹というタブーの関係とは次元が違うからである。この辺もフロイトがエディプス・コンプレックスをとりあげたのは正しい選択であったといえよう。タブーがあるという事は、無意識にはそれを侵犯したいという欲望、つまり近親相姦の願望が無意識内に存在するという事である。

            河合隼雄は、「中空構造日本の深層」の中で、「近親相姦に対する自然のタブーから解放されることによってまず人間の文化が始まったのではないかということである。もちろん、その後、人間は自ら解放した攻撃性や性欲を、いかに意識的に抑制するかに膨大なエネルギーを使用しなくてはならなくなったわけであるが、動物が生来的にそなえている抑制力を解放し、次にそれをコントロールするという、いわば二重否定のような構造が人間の文化の基本に存在していると思われるのである。」と述べている。そして、「攻撃や近親相姦が動物的なものではなく、むしろ極めて人間的であり、人間の特徴は、それを一面的に肯定するのではなく、その肯定と否定の間の統合の道筋に、その文化を築いてきたという事である」とも述べている。
            ここでいう統合とは、弁証法的に展開するという事であり、その為には、テーゼおよびそれに対するアンチテーゼが対象として認識される事(自分と距離を持って認識される事で、それは対象が象徴化されていることが必要になる。)が必要である。無意識的欲望は対象化されていないので、無意識の近親相姦の願望は、意識され、象徴化されて初めて、意識的な近親相姦のタブーとの間で弁証法的な展開をして、止揚aufheben されるのである。近親相姦の無意識的願望をアンチテーゼ化するためにはそれを意識しなくてはならない。なぜそんなことをしなければいけないのか? それについて河合隼雄は「人間が神々に挑戦しようとするとき、それは近親相姦タブーの意識的な破壊でなければならない。強い意識の力をもって、我々は母との合一を体験しつつ(母との合一は、原初の状態への回帰を意味する。原初への回帰は、おのれの存在を、より根源的なものへと合一せしめることを意味し、それは自我の放棄を要請する。)、なおその中から再生しうるとき、それは限りない創造的な過程となるであろう。ここに近親相姦の象徴的次元における創造の秘密が存在している。」と述べている。つまり、無意識の近親相姦の願望を昇華させることで、凄まじい創造のエネルギーが得られるというわけである。
            こういう考え方がどこから出てくるのかであるが、ユングは退行とは心的エネルギーが自我から無意識の方に流れる現象だと言ったが、自我が無意識と触れることで、病的なもの(非現実的な空想を含む)を得ることもあるが、それが未来への発展の可能性や、新しい生命の萌芽であることもある。後者を創造的退行と名ずけ、それを可能にする新しい要素を生じさせることが母子癒着の解消には必要となる。母子癒着の男が母親との結びつきを断ち切る為には、一人の新しい女性、母親とは異なる魅力を備えた女性に出会わなければならない。このことを河合隼雄は「ある程度の自立をした自我は無意識界に再び分入って、そこに母親像とは異なる女性像を見いだし、それとの関係を確立しなくてはならない」という。前回、「わが母」に登場するアンシーがその可能性を持った女性ではないかと書いたが、これで理解していただけるだろうか。

            | 1.サイコセラピー | 13:47 | - | - | - | - |