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青葉心理クリニック

倒錯について 5
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    倒錯について 5

    倒錯者と父の法

    否定の問題は倒錯者に特有の構成を与えます。ヒステリーや脅迫神経症では挑戦されるのはファリックな対象の想像的な所有であるのに対して、倒錯では基本的な defiance ( 挑戦 ) は、父の法に向けられる。それはファルスであるか、ないかの(存在の)弁証法の中で展開される。他方、強迫神経症者とヒステリー者の場合には、defiance は、その代理を持っているか、持っていないかを含めて、ファリックな対象の所有に関してである。この最初の範疇は臨床的に使用するには十分ではないが。

    彼が認める唯一の欲望の法として彼自身の欲望の法を用いるのがいかに倒錯者にとって必須なことなのかを強調することは大切である。倒錯者のこの欲望は元々は父の法である、大文字の他者の法に基づいていない。ラカンが言うように、父は母や子供に威張って命令するが、倒錯者は、その法が、去勢という欠如の象徴化に必要でありながら、父の法を否定するために継続的に努力する。結局、父の法を否定することで倒錯者がしているのは自分の法を他者の欲望の法に従わせるのを拒否することである。従って倒錯者は二つの選択肢を演じる。つまり、欲望の唯一可能な法として彼自身の欲望の法を優先させることと、すべての人の欲望の仲介としての他者の欲望の法を誤認することである。倒錯者の享楽はこれらの二極の間で構築され、不可能な戦略によって維持されるが、それによって第三者は父の法の限定な性格に疑問を呈するようになる。

    従って、倒錯者はこの法(と去勢)を存在する限界と取るので、いつでも限界を超える機会があるという意味で、限界がないということをなおいっそう効果的に示すように振る舞えるのである。倒錯者は、transgression ( 違反 )の戦略から完全な官能的な享楽を引き出す。それでも、そのような戦略は、現実の、ないしは想像上の共犯者を必要とします。そして倒錯者が去勢に関して没頭する幻想に関連した呪文を唱えて呼ぶトリックによって、目撃者が騙される。目撃者として可能性がある中で、母親はオリジナルでないかもしれないが、少なくとも特権的な存在であり、後ほどそれを詳しく述べる。

    以下の Jean Clavreul の記載は、倒錯者の演技に欠くことのできない共犯の目撃者の存在のあり方を説明している。

    倒錯者の行動において、大文字の他者はパートナーとして、とりわけ共犯者として、目指しの担い手であることは明らかである。これは、倒錯行為と倒錯的幻想を根源的に区別することに関わる。前者では、大文字の他者の目指しが共犯には絶対に必要で、それなしでは幻覚の領域が存在しないだろう。後者では、大文字の他者の目指しなしでとても上手く扱えるのみならず、一人での自慰的行動で自己満足することにそれ(倒錯的幻想)が上手くいくかどうかを頼っている。もし、倒錯行為が行動された幻想と明確に区別されるなら、その間の境界線は大文字の他者の目指しである。つまり、この目指しは倒錯者にとって必要な共犯を提供するが、正常、ないし神経症の主体には罪の警告を含むものとして経験される。

    他者が暗黙の共犯者であるという範囲において、倒錯者は defiance を享楽にアクセスする方法として始動できるのである。しかし、実行に移す様々な方法があるにもかかわらず、倒錯者の戦略はいつも同じである。常に法に関する他者の関係を決める目印や限界に関して他者を間違った方向に導くのである。

    Clavreul は続けて言う、

    倒錯者にとって最も大事なのは、よく知られた基準、特に世間体という基準に大文字の他者が携わり、登録されるので、新しい体験はその度ごとに放蕩のようにみなされる。つまり、大文字の他者は彼の法体系から引き離され、倒錯者がいずれの場合も制御できると確信している享楽を達成してしまうということである。

    逆説的ではあるが、倒錯者が父の法に関係する方法は主に母親に、そして母親を超えてすべての女性と関係する特定の方式を通して認められる。しかし、これは本当は驚きではない、というのは倒錯者の否認は父に対する母の欲望、これそのものは基本的には許されないものであるが、と直接の関係があるからである。この否認は、幼児の性理論、特に母親にペニスがないのは父によって課された去勢だけによって説明しうるということに基づいて形成された幻想に関する構成によって伴われれる。幼児の幻想の根強い特徴が去勢に関する特別な恐怖の根にあるので、すべての倒錯者に、それが現実の去勢の幻想に基づくので、ますます大きくなった恐怖を認めるのである。

    この問題は、一方では、母親そしてすべての女性の去勢の様々な幻想と、他方では、父に対する母の欲望の性質との間の微妙な弁証法を前提としている。倒錯者はこの二つの布置の間で行ったり来たりする。母親が父の欲望にの規範に従うのは父のせいである、(というのはそれによって欲望は常に他者の欲望の規範に従わなくてはならないとする欲望の不当な法で母親を騙したということで)とか、母親は母親の意思で父の欲望を欲望したということで誤った、という布置の間で動揺している。後の方の場合、母親は父の欲望という面で父と和解したから、倒錯者が母親の去勢の共犯者だったとの非難を投影するのは母親に対してである。

    この去勢の二重の幻想は男性、女性に対する倒錯者の典型的な行動を予め決めている。欲望の法に母親を従わせている不当な父であるか、あるいは法を受け入れる弱い母親であるかどうか、幻想に関係する幻想に関する二者択一は同じ硬貨の両面である。つまり、両者は去勢の恐怖で重層決定されているし、両者は欠如、即ち去勢を確定するので認められない。この恐怖に対して、倒錯者は他の幻想に関連した構造で、その中で倒錯者が欲望に関して全能の母親、欠くところのない母親を想像する、そういう構造で立ち向かおうとする。この信念は象徴的父を父親の機能の表象として無効なものにしてしまう。言葉を変えると、父は母親が欲望する何かを持っていると仮定されない。結果として、倒錯者は(自分が)母親に享楽を与える唯一無二の対象であるという幻想を維持し続けることができる。





     
    | 1.サイコセラピー | 18:39 | - | - | - | - |
    倒錯について 4
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      倒錯について 4


      Defiance (挑戦)と transgression (違反)は倒錯以外にも、強迫神経症とヒステリーでも認められる。しかし、これらの構造では、transgression が defiance と倒錯と同じような仕方で結びついているわけではない。

      (欲望自体がシニフィアンによるものであり)性差が欲望の原因であることを認めるのが「性差の合意」というもので、そもそもが母の欲望は父と関係があることを知りながら、それを否認するのが倒錯者の否認である。だから倒錯者の否認は、基本的には性差の否認である。


      Obsessional neurosisにおける defiance と transgression


      defiance ( 挑戦 ) は強迫神経症者の徴候的な行動の中に明確に存在する。すべての様式の競争や支配の規制に関わる場合に認められる彼らの衝動を考えてみなさい。これらの状況の基盤にあるのは、現実の、或いは想像された相手を無視するという問題です。しかし、この積極的な defiance は transgression (違反) の可能性と反比例する。強迫神経症者は合法的な戦いだという文脈でのみ総力を挙げた defiance を開始できる。実際、彼は戦闘のルールをとても心配していて、それらを遵守することを怠らないようにする。したがって、強迫神経症者は無意識にもかかわらず、必死になって倒錯者になろうとするが常に失敗すると言える。強迫神経症者が合法の擁護者のふりをすればするほど、ますますtransgression (違反)したいという彼の欲望と、知らないで戦うことになる。彼が defiance について知らない、あるいは知ろうとしないのは、彼が唯一の主役だということである。彼は defiance に従事するために逆境という想像上の立場を作り出す必要がある。というのは, そうすれば、彼自身に挑戦するのはほとんど常に彼だということを誤認できるからである。transgression は強迫神経症者が、彼らの欲望に直面した時の慌てふためいた逃亡として演じられる。この逃亡の試みにおいて、自身の欲望を知ろうとしない強迫神経症者よりも、欲望の方が走るのが早いというのは珍しいことではない。逃げている主体はその時に、この欲望の施行によって追いつかれ、大部分は受け身で欲望を経験する。これらの契機で、主体がいわば自分自身の欲望に誘拐されるような場合、この欲望は transgression の中でしばしば現実化されることになる。大概の場合、軽微な違反はあるが、主体によって劇的に表現されるので、幾分倒錯者の transgression を思わせる、華々しさを感じさせるかもしれない。行動することはこの脚色を刺激する。付随する享楽があれば、強迫神経症者は彼の欲望に影響されて、行動化をする。


      HYSTERIAにおける defiance と transgression


      ヒステリーの構造にも defiance を認める。ここで、 transgression の基盤にあるのは同一化の当面の問題それ自体であるが、それはファリックな論理から起こり、それに関連した性的同一性の問いでもある。ヒストリー者の性的同一性に関する両価性ゆえに、ヒストリー者の欲望それ自体が倒錯的な人物像に認められるのと同様な方法で表現されうるのである。同性愛の脚本に現れる倒錯的な両価性はヒストリー者によって行動化される。ヒステリー者の真実を白日の下にさらすという倒錯的享楽も思い出されるだろう。ここにラカンが「美しい魂」という辛辣なヘーゲルの概念ということで記述した古典的なヒステリー者の位置を見つける。理想的な方法で真実を白日の下にさらすという傾向のないヒステリーというものは実際にはないので、ある時には第三者の前で他者の欲望の本性を暴き出すことが含まれる場合にもそれは行われる。これは特にある当事者に関する真理を明らかにすることが他の当事者の欲望を逃したり、疑問にさせたりするような場合である。前にも述べたが、ヒステリーにおいては、倒錯に比べて transgression の面では弱い。そして、ヒステリー性の defiance など存在するかは疑わしいが、この defiance は平凡なものであり、それは父の法への、そして去勢のシニフィアンのファリックな論理への挑戦によって維持されるものではないからである。ヒステリーにおいて、去勢のシニフィアンは象徴化されている。この象徴化に対して支払われなくてはならない代償はファリックな追憶の領域に現れる。言葉を変えると、ヒステリー者にとって、象徴的去勢はすでに起こっている。彼らは他者の欠如を受け入れているのだ。ヒステリー者の経験する追憶は想像界で上演され存続しているものを行動化させる。ヒステリー者は去勢の現実を否定するふりができるのみである。さらに、ヒステリー者に倒錯者的な華々しい、圧倒的な性質を与えるのはこの追憶である。追憶のシナリオは空想化された神による聖別の状態に詩的な脚色を与える。よく知られているようの、神による聖別の状態はそれが想像的であるという故のみで心的関心を呼ぶ状態なのである。現実界でそれが受肉化されるやいなや、ヒステリー的な見せびらかしが優勢になり、ヒステリー者は見せかけに追い詰められて、つま先立ちで逃げ出す。ヒステリー者は defiance を企て、維持する方法がある限りでは見せかけの要素を好む。このdefiance はそれなりに、ファルスを要求する戦略である。特徴的な例として売春婦と同一化するヒステリーの婦人の古典的なファンタジーを考えてみてください。手に負えそうもない defiance の行為として、このような婦人は、恥知らずな男性が声を描けるまで、通りを行ったり来たりして、適当な場所で車の中にいて、声をかけられると、「私はあなたが思うような種類の女ではないの!」というのがある。女性のヒステリー者の defiance は、彼氏とと彼女の関係を決定するファリックな論争で容易に試してみることができる。「私がいなかったら、あなたは何でもない。」これはこういうのと同じ、「あなたは、あなたが持っていると思っているものを本当に持っていると私に証明することはできない」。もし彼が、このような表明を企てるほど向こう見ずならば、彼女は挑戦をどんどん推し進めるだろう。男性のヒステリー者の場合、defiance は、同様にファルスに帰属の項目に属する。特有な、欲望の弁証法において、男性ヒステリー者は自分自身に耐えられない挑戦を投げつけるが、それは欲望と男らしさを同じものとみなすことによる。彼にとって、魅力的であることは、彼が彼の男らしさを女性に関して証明できることだと必ず暗示している。この意味で男性ヒステリー者はなだめられない彼自身の挑戦にとらわれ、彼の男らしさの表示に彼女が屈服するというファンタジーを通してしか女性を欲望できない。従ってこのようなシステムにおいて、女性の享楽はファリックな万能性の前に彼女が屈服した印になる。男性ヒステリー者がこの耐えられない挑戦の泥沼にはまり、よく知られた症候型行動、つまり早漏や不能で反応しなくてはならなくなるのは驚くべきことではない。
      | 1.サイコセラピー | 05:16 | - | - | - | - |
      倒錯について 3
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        前回は、いささか廻り道ながら、倒錯が正常な発達過程の中に位置付けられる、つまり倒錯者はエディプスの過程を経過しているのだということをフロイトの著作を主として引用して示したが、今回は、その過程のどこに倒錯が位置するのかを述べていくことになる。用いているテキストは、主にDorの The clinical lacan である。途中説明がなく享楽が出てきて戸惑われる方があるかもしれないが、とりあえず今は以前のブログで講演会で依存症について述べた時の資料を公開しているが、その中に享楽についての説明が書いてあるのでそれを参考にしていただきたい。

        エディプスの弁証法の中で子供が母の想像的ファルスになるというファリックな同一化の過程が、想像的な父親が介入することで異議を申し立てられる点に戻ってみよう。その父親は子供からは子供自身が母親の欲望の唯一の対象である状態において、ファルスをめぐる競争相手と目されている。この競争に気づくと同時に、子供は以後自分の欲望の展開がどうなるかを決める現実の二つの秩序に気づく。

        第一に、子供は母親の欲望の唯一の対象ではないことが明らかになる。この新しい立場は母親が子供に対して持つ欲望以外の欲望を母親が持つのではないかということを発見する可能性を開く。
        第二に、子供が母親の欲望の唯一の対象、つまりファルスに同一化する限り、その子供によって母親は決して満足させられることはない、つまり母親は欠けている、ことを子供は発見する。

        この二つの出来事が起きても、なお父親はファルスをめぐるし想像的競争相手の一人としてだけ参入し行動できるのである。この競争の跡を、後ほど、倒錯の典型的構造特性、すなわち defiance ( 反抗の態度、挑戦)として再発見するだろう。そして、defiance は容赦なく transgression (違反、犯罪 ) を招くが、それはdefiance と分かち難い補足的な構造特性である。想像的なファリックな競争を確立、強化することは、(良くないことが起こるという)予感を密やかに発展させ、性差の問いに関して、それが引き返すことができないことがわかるという結果をもたらす。子供は父親の姿の向こうに、子供には禁じられていると感じられるが故に根本的に自分は阻害されていると思う領域に、享楽の新しい世界を予見する。これは子供は除外されている享楽の領域である。この予感を通して子供は、なんとかしてそれを完全に避けたい、和解しにくい、去勢の秩序の存在を感じるのである。

        同時に、この経験は他者の欲望について新しい認識の始まりを意味し、これによってなぜ子供がファリックな同一化に至った時に迷うのかを理解できる。同様に、この父親の侵入が子供に子供の欲望の可能性のある新しい方向づけのみならず、享楽に付随する問題点にも直面させ、去勢不安が動員されうることがわかる。エディプス的な状況が展開するにつれて、このような欲望の停滞は避けられない。それでいて、実際ここでは倒錯者は彼自身の構造の運命を演じるので、これは決定的な出来事である。子供は欲望の停滞にとらわれていても、ファルスの機能に記入される決定的なかかわりの様式をそこでなお見つけることもできる。実際、子供は、彼の有機的組織の発達において、活動の方向が欲望に向かう新しい段階、つまり去勢の受け入れに向けて動力学的な動きの活動の段階で、全てががうまく収まるところに収まる(去勢を受け入れるかどうかということ)かどうかが不安定な状態にある。倒錯者はこの、去勢の受け入れと戦うことを決して止めないし、欲望の活動への正式な参加者としてしっくりいくことは決してない。それはこの動力学的な契機が子供を象徴化されていない性差の現実へ向かわせるが、それがうまくいくためには欲望の原動力に内在する欠如を子供が受け入れることができるかどうかにかかっているからである。子供が、「全か、無か、」の法則から逃れられるのは、性差を象徴化できる位置にいる時だけである。倒錯者はこの二つの状態の間で彷徨い、象徴化できない欠如の表象の中に閉じこもる。このような象徴化できない欠如は、その中で子供を疎外し、母親の去勢の否定、あるいは否認によって、終わりのない心的な抗議を始動させる。言い換えるならば、将来倒錯者になる子供は、象徴的去勢へのアクセスをブロックされるが、このアクセスのみが「欲望の原因」としての性差という現実を受け入れる契機なのである。父の侵入で意味される欠如は子供の欲望が新たな力動の方向へ向かうのに必要であることは明らかである。この動揺の契機において、他者における欠如のシニフィアンの配布が暗黙のうちに引き起こされる。

        母親は子供が母親のファリックな対象である状態にあることについて、子供の不安をなくす究極の「言葉」を子供に伝えることができないし、全能の父は子供の絶対的な競争の対象としてはもう存在しない。

        子供は象徴的父の次元に、そして、もし想像的父親の表象を捨てなければならないなら直面せざるをえない心的予感に敏感になる。他者における欠如のシニフィアンの媒介だけがファリックな対象以外の何かに父親像を導入できる。他者における欠如のシニフィアンは論理的に子供がファルスを持つと登記する方を選んで、ファルスであると登記するのを捨てるようにさせる。「である」から「を持つ」への移行は父親が母親が欲望するものを持っている、より正確に言うと、母親としては、母親が父親に欲望すると仮定されている何かを持っていると仮定されるとして子供に現れる範囲においてだけ、行われる。このファルスの割り当てこそが父を象徴的父として確立し、子供に対して近親相姦を禁ずる仲介として構造化される法の代理としての父を確立する。

        倒錯者が他者の欠如の種類に属している何かを知る場合に子供に湧き上がる疑問に接するやいなや無視しようとするのは象徴的父によってが投じられたこの実体のないものなのである。(象徴的なものという意味)

        否認、すなわち子供の反抗、の目的はこの欠如の象徴化のあらゆる可能性の拒否である。その結果は母の欲望に関する真実が同時に、体験されたり、拒否されたりする、倒錯者の機能の典型的方法である。言葉を変えると、子供は以下の矛盾の中に閉じ込められる。父の像の侵入は子供に、母はファルスを持っていない、そして父はファルスであるか、ファルスを持っていると思わせる。他方、母がファルスを持っていないとしても、もしかしたら母はなんとかしてファルスを持てるのではないかと思うのである。これがもたらされると、子供はファルスを母にだけ分配し、想像の領域でその分配を維持する。この想像的な維持は表彰される性差と欠如を否定するものです。ファリックな対象に関してこれら二つの選択が共存することが倒錯者の欲望の活動に特徴的な外形と構造を与える。この構造は、一旦去勢が認識されると欲望のいかなる可能性を想像することを主体に許さない法に従って組織化される。それは盲目の法であり、それ自体が父の法の代わりをするが、その父の法は、子供の欲望を運命に向けて方向付けうる唯一の法であり、最初から遮断されていない。別の言い方をすると、倒錯者の欲望の受け入れを邪魔するのはその底にある法、すなわち、決して他者の欲望を参照するなという欲望の命令的な法、である。というのは父の法だけが欲望は本来、ある人の欲望の欲望だという構造を強いるからである。欲望を仲介するものとしての父の法が否定される限り、倒錯者の欲望の動力学は太古的なレベルに固着させられることになる。子供の欲望の最初の対象を放棄する必要に迫られた時に、去勢を要求される心的発達の新しい様式を放棄するような欲望を捨てる方を好む。それはあたかも子供が自身の欲望の対象を諦めないように動機づける、去勢不安がその点に子供を固定しているようだ。子供は防御過程にこびりついて離れないが、その過程は、早期から、子供が作り出さなくてはいけない心的努力に抵抗させる。この努力はまさに欲望の最初の対象を放棄することこそが実際、新しい状況を与えることで欲望の可能性を保持することになる。父の機能により引き起こされるこの新しい状況が、他者の欲望を欲望するという意味での欲望する権利を確立する。子供の特定の心的活動のために、倒錯者は欲望の権利から除外され、命令形で、他者の法ではなく、自分の法が唯一の欲望の法だと言おうとしてたえず試み続ける盲目的な行動の型に固着したままになる。このことで、倒錯の作用の様々なメカニズムとそれをを性格付ける構造的な特性が理解できる。すでに述べたように、defiance ( 挑戦 ) とtransgression( 違反 )が倒錯者の欲望のただ二つの可能性のある結果である。否定あるいは否認でさえも、基本的には父に対する母の欲望の問いに関連している。この意味では真っ先に性差の否定である。フロイトが見抜いたように、このような否認は倒錯者がなんとかして知った父に対する母の欲望の範囲にしか位置付けられない。否定されるものはあらかじめ意識にあるものだけです。倒錯者は彼自身の方法で、性差の現実をよく知っている。彼が拒否するのはそこに含まれるものであり、その中で主なものは欲望の原因を意味するまさに差異なのです。このように倒錯者は享楽の可能性を保持しようとするが、それはファルスというシニフィアンを必要としない。自身の法を絶えず刺激して、倒錯者はそれはまだそこにあり、それに遭遇できると安心する。この意味で違反は挑戦には避けられない相関物である。法の存在で安心することするには、翻ってその法に象徴的に関連する禁止や規則に激しく違反しようとするしかない。子供が法を否定し、違反さえすればするほど、このような法は性差を作り出し、近親相姦を禁止することに言及することを確かめる必要性をますます感じるようになる。








         
        | 1.サイコセラピー | 11:08 | - | - | - | - |
        倒錯について 2
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          フロイトにおける倒錯とは、、単に欲動の目標の偏倚を特徴とする過程だけでなく、「正常な性的過程のインフレーション」でもある。

          倒錯という現象は性欲動過程の柔軟性を証言している。性欲動過程の目標におけるこのような柔軟性は正常な性生活においてもほぼ正当なものとみなされている。逆に言えば、すべての性的過程は性欲動のこのような柔軟性を伴っている。

          神経症の病的症状は、主として、正常な性欲動の犠牲の上に成り立っているのではなくて、性欲動の転換を示しているのである。この性欲動は、もしそれが意識から遠ざけられずに、(この意識から遠ざけるということがフロイトのいう抑圧の本当の意味である。)、つまり抑圧されずに、直接に想像的、現実的な企画、行為という形で表現されている場合には(広義の)性目標倒錯的と言わざるをえないような欲動の転換された表現を表しているのである。したがって、神経症症状は異常な性欲動の部分的な犠牲(抑圧されたということ)の上に成り立っている。つまり、「神経症は倒錯のネガである」。(このフロイトの定義は説明のための方便であることを銘記されたい。)

          おそらく性欲動自体は決して単純なものではなく、幾つかの成分から複合されたものであって、perversion においては、それらが(退行というメカニズムで)またこの欲動から分離していくのだということである。

          perversion の発生においては、フェティシズムの場合と全く同様に、それが固着する以前に正常な性愛の発達があったのだ。perversion もまたエディプス・コンプレックスに向かう発達の停滞であり、それが抑圧された後に、性欲動のうちで素質的に最も強力な要素が再び現れてきたのだ。
          倒錯を研究することで、フロイトは「部分欲動」という概念に到達した。そしてこの部分欲動という概念に基づいて「神経症と倒錯」を対比して検討した。

          部分欲動は精神分析が性の分析で辿り着く究極の要素である。これらの要素は、口唇欲動や肛門欲動といった「源泉」と、窃視欲動や支配欲動といった「目標」によって各々区別される。部分欲動はまず(倒錯的に)独立して機能し、次いで様々なリピドー体制へと統合されていく傾向を持つ。

          総体としての性欲動は、一定数の部分欲動に分けて考えられる。その大部分は、容易に特定の性感帯に結び付けられる。中には目標(例えば、支配欲動)によって定義されるものもあるが、その場合でも身体的源泉を与えることができる(支配欲動の場合は筋肉)。
          部分欲動の働きは子供では様々な断片的な性活動(多形倒錯)に、大人の場合は性行為の前戯という形態で倒錯として認められる。フロイトは、欲動はまず無秩序な状態で活動し、その後に、二次的に組織化されると考えた。
          「 性欲動が精神生活に力動性を持って現れるとリピドーと呼ばれるが、この性欲動は部分欲動から構成される。だから性欲動は再び部分欲動に解体することがあり、また部分欲動がきちんと定まった体制に統合されるのは徐々にでしかない。部分欲動の源泉となるのは身体器官、特にある際立った性感領域であるが、リビドーへの貢献は身体全体の重要な機能過程からもなされる。ここでの部分欲動は最初は相互に無関係に満足を求めて努力するが、発達が進むにつれて次第に統合され、集中される。第一の前性器的段階として、口唇帯が主役を演じる口唇段階が認められる。ついでサディズム的肛門愛段階で、ここではサディズムの部分欲動と肛門帯が特に目立っている。
          男女の性差はここでは能動的と受動的という対比によって代表される。第三の最終的な段階は、性器優位のもとに大部分の部分欲動が統合された段階である。」(「精神分析」と「リビドー理論」)

          小児性欲は部分欲動がそれぞれの対象と目標を持つために必然的に倒錯的とならざるをえない。つまり、倒錯はリビドー発達が固着している前段階への退行の結果である。

          欲動の目標(Zeil ) とは疑いもなく欲動の満足である。そしてこの満足が得られるのは欲動の源泉(Quelle ) における刺激状態の解消によってのみである。しかし、すべての欲動にとってこのような最終目標は変わらないにしても、この最終目標に至る過程にはいろいろなものがあり得るわけである。その結果、ある欲動にとって身近な、あるいは中間的な、多様な目的が生じ得るわけで、それらは互いに結びついたり、交換されたりする。我々の経験によれば、「目標を阻止された」欲動というのもあり、これは欲動の満足へと多少は向かったとしても、やがて制止とか、方向転換などに出会う場合に認められる。このような場合には欲動の部分的な満足が得られていると考えることにする。( 欲動とその運命 )

          性欲動の対象( Objekt )は全く一定したものではなく、ある対象が満足の対象として選ばれるのは単に主体の歴史との関係においてのみである。

          欲動の対象( Objekt )とは、それによって、またはそれを通して本能が目標に達するところのものである。目標は欲動にとって、最も可変的であり、もともと欲動と結びついているわけではなく、欲動満足を可能にするために用いられるに過ぎない。それは必ずしも、外敵である必要はなく、自分自身に肉体の一部であってもいい。欲動が様々な運命をたどる間に、対象は随意に変わることがしばしばある。このような欲動の移動は重要な役割を持っているのである。同一の対象が同時に幾つかの欲動に満足を与えることがしばしばあるが、これはアードラーによれば、欲動交叉の例である。欲動が対象と特に密接に結びついている場合、それは欲動の固着Fixierung と言われる。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に行われてしまうことがあり、この固着が解消されることに激しい抵抗が生じて、欲動の可動性に終止符が打たれてしまうことになる。

          制欲という領域での欲動の目標や対象の可動性ということから、

          性欲動の一般的特性は次のように言うことができよう。性欲動は数が多く、多様な器官の源泉から生じており、最初は互いに独立的に活動するが、のちには多かれ少なかれまとまったものに統合される。それぞれの性欲動が得ようとして努力する目標は器官快楽 Organlust の獲得である。
          統合が成就して初めて性欲動は生殖機能に従事できるようになり、これによって性欲動は性欲動として一般に認められることになる。初めてその姿を現わす時、性欲動は自己保存欲動に依存している。性欲動はこの保存欲動から次第に離れていくのであるが、その際の対象発見に際して、「自我欲動」によって示されるような道程をたどるのである。性欲動の一部は終生自我欲動と結びついたままに留まり、自我欲動にリビドー的構成要素を付与する。このような構成要素は、その機能が正常の間は見過ごされやすいが、一旦病的になると明らかになるものである。性欲動の特徴は、大幅にお互いの代理になりあって出現し、簡単に対象を取り替えることができる点である。最後に述べた特性によって、性欲動は本来の目標行動とは遥かにかけ離れた事柄を達成することが可能となる(昇華)。

          欲動が発展し、生活を続けていく上で、どんな運命を辿るかは、よく知られている性欲動に限定して述べなければならない。欲動の運命は以下の4つ。

          1. 対立物への逆転
          2. 自己自身への向け変え
          3. 抑圧
          4. 昇華

          倒錯に関連しているのは最初の2つであり、

          (性的過程の)対立物への逆転は、二つの異なった過程に分解される。一つは能動性から受動性への欲動の方向転換であり、例として取り上げられるのは、サディスト/マゾヒズム、窃視症/露出症 である。苦しめる、覗くという能動的目標に代わって苦しめられる、覗かれるという受動的目標が設定されるわけである。もう一つは内容の逆転であり、愛情が憎しみに変わるという例である。両者とも方向転換は欲動の目標にのみ関わっている。

          自己自身への向け換えはマゾヒズムが他ならぬ自我自身に向けられたサディズムであること、露出症には自分自身の身体を覗くことが共に含まれていることを考慮すれば理解できる。マゾヒズムは自分自身に対する凶暴な掟を自分で享楽しており、露出症者は自分で自分の露出を享楽しているのは疑いがない。この過程の本質的なことは、目標は不変のままで対象が変更されることである。

          この二つは、欲動という概念により倒錯の基本的な点がいくつか明らかにされたが、それは倒錯は本来の意味の性的発達の中に位置付けられる(つまり、エディプスの弁証法の中に位置付けられる)ことを示している。しかし、欲動過程の解明はこれだけでは不十分であり、そのためにはさらに、現実の否認、去勢の否認、自我の分裂などの概念が必要とされるのである。それらによって、性倒錯の病理の独自性が明らかとなる。


















          | 1.サイコセラピー | 04:48 | - | - | - | - |
          倒錯について 1
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            倒錯は、ラカンが述べた主体の3つの構造のうちの一つであるが、精神病と神経症の記述、あるいはこの両者の鑑別診断に記述に比べて本邦では取り上げられることが少ない。その中で小出は、境界型人格障害をこの倒錯に当たるものとして捉えているが、その当否を含め議論が必要となろう。今回は、Dorの “The Clinical Lacan” と同じくDorの “Structure et Perversions”を読みながら、何回かに分けて、この「倒錯」について考えたい。

            フロイトは彼の著作のいたるところで倒錯について述べている。欲動の持つ可塑性、欲動の対象と目的に関しての代わりやすさなど欲動の概念を倒錯の分析に導入したところが、当時の倒錯理論に加えたフロイトの新しさだったといえよう。

            正常の性発達において倒錯過程が果たす役割として、幼児期における多形倒錯とそれが大人になってからのリビドー経済において再び姿を見せることを強調した。

            幼児性欲は自体愛的であり、ある種の刺激が快感を引き起こすのは皮膚または粘膜のある箇所であり、この箇所はどこでも性感帯になれる。ヒステリーでは、この移動可能性を認め、ヒステリー発作を起こす解剖学的領域はこの性感帯と同じ性格を持つ。幼児では、この性感帯の活動とは別に、覗き見の快感、見せる快感、残虐性という部分欲動がある。

            フロイトが神経症と倒錯の鑑別について、有名な「神経症は倒錯のネガである」という言葉を残しているが、これは欲動の本質的な姿を強調している。これは神経症の症状は、意識の牽制(抑制)を被っていて、もしこの牽制がなくて空想や行為に直接表現されたら、倒錯とされるだろうという意味である。倒錯がこのようにそのまま現れようと、神経症のように陰画の形で見られようと、これらの倒錯は一連の部分欲動に還元できるのである。欲動に関して、倒錯では、それが反対物に向けられたり、主体自身に向きを変えられたりする。

            フロイトが述べた倒錯のメタ心理学的なメカニズムは、去勢に関しての現実の否認と自我の分裂である。

            エディプス・コンプレックスは、母親にファルスが帰属することから始まる。これは性差の謎に由来するが、子供にとっては謎であり、エディプス・コンプレックスのもっぱら想像的な探求は、この謎に答えようとする子供の試みである。彼はペニスは誰もが共通して持っているものではないと気づく。それでもなお、子供はその事実を否認し、ペニスを見たんだと信じる。ペニスはまだ小さく、やがて大きくなるだろうと自分に言い聞かせて、観察と先入観の間の矛盾をうまくこじ付ける。結局、ペニスは前にはそこにあったのであり、のちに取り去られたのだとうい情緒的に重要な結論に達する。ペニスの欠如は去勢の結果であり、子供は自身との関係で去勢を甘受することに直面する。

            ファルスの帰属はそこになければならない何かの概念であり、喪失として経験される。だから、ファリックな対象は厳密に想像的なものである。去勢の結果は初めからファルスの想像的次元と結びついていて、器官としてのペニスやその不在とは結びついていない。

            子供は突然性差の現実に直面させられることでもなければ、ファリック・マザーの表象を諦めようとしない。彼自身のファリックな同一化が想像的なものであり、彼の母親の欲望の唯一無二の対象であることを諦めなくてはならないという耐えがたい結論を受け入れなくてはならなくなる、そのような純粋な性差としての、現実を受け入れることが心理的に自分にとって有利立ちは子供は認められない。去勢に直面することは子供に不安を引き起こすのは避けられない。このような想像的な構成は去勢が母に起こったのであれば、それは子供にも起こりうるという去勢の脅威を信念として強化する。

            フロイトは去勢不安の開始をここに置き、従って、それを中和するための防御反応の開始もここに置いた。これらの防御反応は性差の受け入れを拒否するだけではなく、去勢を逃れるために早期に費やされる心的な努力にも明確に表れている。フロイトは、現在我々が心的構造と表現している、ある方式に従ってこれらの防御が心的経済の方向性をあらかじめ大いに規定していることを示している。去勢をそれがいつでも免れ得るという条件で受け入れるのが倒錯であり、好む、好まないに関わらず、去勢を受け入れ、去勢を受け入れる前の状態への追憶を症候のすべての範囲で表すのが神経症である。

            フロイトは、固着 fixation ( and regression 退行 ) と 現実の否定 を倒錯に特徴的な防衛手段だとした。これらがそれぞれ、同性愛とフェチシズムの構成要素である。

            ( 性対象倒錯 inversionとして分類される)男性同性愛は基本的に去勢に対する防衛的ナルシシズム的反応であり、子供はペニスを授けられた女性の表象に選択的に固着している。この表象は無意識に活動的に存在し、将来のリビドー的成長に影響を与える。(女性同性愛は別であることを意識しておくことが大切。)

            (男根的)母親への固着ののちに、自分を母親という女性と同一視し、自分自身を対象として選択する。「すべての人間は同性を対象として選択する能力がある」とみて、母親が自分を愛してくれたように自分を愛してくれる、自分自身に似た男性を選ぶことを、ナルシシズム的対象選択という。

            一方、( 性目標倒錯 perversion として分類される ) フェチシズムは上記同性愛で認められた防衛手段よりも複雑なそれを用いる。本質的には否認、つまり現実の拒否であり、母親、そしてすべての女性にペニスが欠けてているという、外傷的な認識を現実として認めることの拒否である。現実の拒否によって制定される防衛戦術は関連するメカニズムとして代理形成を用いる。

            この行為は二期に分かれて展開される。初めは、現実の否認、それ自体があり、女性にペニスがないことに直面した時の小児の態度を維持するものである。主体はその欠如を知覚するが、去勢不安を中和するためにそれを退ける。しかし、同性愛と比べると、男根的母親への固着は不安定で、従って妥協形成を許す。現実には女性はペニスを持っていないのだから、フェチストは、その第二期において、現実において他の対象に、失われたと思われる対象を具現化する。そのフェティシュは、ファルスの受肉化したものとなる。フェティシュは女性がファルスを持っているのではないかと仮定することで、女性を性の対象として選ぶことを可能にしてくれる。これによってフェティストは同性愛者になることを免れるのである。

            フロイトはフェチシズムを通して、自我の分裂という概念を明確にした。フェチシズムは二つの相互に排斥しあう心の構造が共存することによって特徴付けられる。一方では女性にペニスがないことを認め、もう一方ではこのようにされた現実の認識を否認する。これらの認識はお互いに影響しあうことはなく、よってフロイトは自我の分裂の概念を仮定することができたのである。





            | 1.サイコセラピー | 13:49 | - | - | - | - |
            依存症  青葉の会 3月30日講演より
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              依存症について
              平成28年3月30日 青葉の会講演から抜粋

              はじめに、心理学と精神分析学の違いを簡単に触れてから、2011年にLondonのKARNAC書店から刊行された「LACAN AND ADDICTION」という論文集から、ラカン派の依存症に対する考え方をお話しいたしたいと思います。具体的には、Kareen Malone and Yael Goldman Baldwinの 「viewing addictions through Lacanian lenses という論文を原文の抜粋をパラフレーズする形でご説明したいと思います。 心理学が、刺激と反応という基本的な考え方を持っていることは、「パブロフの犬」が心理学を独立した学問にしたと言われることからも明らかです。これが原因があって、結果がでるという因果論が含まれています。このことから、治療として出てくるものはいわゆる「行動療法」と呼ばれるもので、問題のある「ある刺激とその反応という結合」を消去して、その代わりに新しい結合を作り出し、問題をなくするというものです。我々の脳の構造が、時間的に先にあるものは後にあるものの原因になるという因果的な考え方を持っていますから、こういう考え方は受け入れやすいものではありますが、残念ながら、言葉を持つ動物としての人間の心の分析には、この方法では限界があるということなのです。一方、精神分析は、刺激と反応の結合様式ではなく、刺激によって身体に緊張が生じ、この緊張を放出し、元の状態に戻るような働きを持つのが反応だと考えます。比喩的にいうと、心理学は仏教のような因果論であり、精神分析はキリスト教的な予定調和説(目的論)と言えるかと思います。この精神分析の考え方の延長に恒常原則、さらに快感原則と現実原則がありますが、そちらに向かいますと依存症にたどり着けなくなりますので、この辺で本題に移りたいと思います。 さて、精神分析は, ジークムント・フロイトによって創始された心の無意識を解明しようとする学問であることはご承知だとおもいます。ラカンはフロイト以後見失われたフロイトの独創性を言語学、集合論、哲学などを自在に用いて精神分析の中興の祖となったフランスの精神分析医です。 実はフロイトは、コカインを医療目的で使った最初の医者であることはあまり知られておりません。残念ながら、このコカインによる治療は中毒者、依存症を作り出し、失敗に終わっていますが、この失敗からも優れた臨床的知識を紡ぎ出しています。 ではその辺から、Malone と Baldwin の論文のパラフレーズを始めたいと思います。 Cocaine does not affect everyone in the same way. これは、フロイトの見解ですが、薬物依存には大切な視点です。日本の警察は、マリファナに手を出すと、それがエスカレートしてより中毒性の高い薬物に移行するといいますが、そういう人もいれば、そうでない人もいるのです。

              Freud began to locate the cause of any problems with drugs within the subject.

              主体(=人間)の持つ精神の構造を、神経症(正常者を含む)、倒錯、精神病と分類するのが精神分析の捉え方です。この分類は、葛藤に対して、それぞれ抑圧、否認、排除というメカニズムを使うことで分類されているのです。

              It is well known fact that the various addictions are an increasing problem worldwide,which in itself is a strong indication that addiction is related to a changing culture and thus to a change in the response of the human subject to their discontent in civilization. This discontent,and indeed the subject's response to it,has since Freud always been a concern for psychoanalysis.

              文化の変化につれて依存症が増加してきた、つまり社会と人間の心の間には関係があるということです。特に、依存症は資本主義の発達(堕落?)と関係があるとされます。それは古典派経済学がモデルとしている「作ったものは全て消費される」ということの延長線上にあります。またこのような社会を皆さんの隣にいる「他者」と区別する言い方が、大文字の他者(the Other)という表現で、その大元は乳幼児期に子供の生殺与奪の権を持つ母親 mOtherがその原型です。

              It can be argued that the push to find solutions outside oneself for one's problems and discontents,as well as the duty of enjoyment in recent times,fuel the addiction of our society. 本来は、心の中で解決しなくてはならないことを、外のもので解決させようとするのが依存を加速している Freud came to the conclusion that cocaine has only an indirect effect on people. Addicts are not addicted to drugs , but are addicted to an effect they get out of drugs : a subject-specific effect. This is an effect that non-addicts do not get out of drugs. I have attempted to find a mechanism that can contribute to helping to understand how symptoms and drugs affect people differently .I call this mechanism “administration". 依存症は薬物への依存ではなく、薬物の作用に対する依存である。この作用は非ー依存者は薬物から得られないものである。症状や薬物が人によって違うことに寄与するメカニズムを彼らはadministration と呼んでいる。これは英和辞典では、管理、経営、統治、行政、執行などの意味であるが、日本語にはなおしにくい単語であり、文脈が経済論的であることから、管理、経営が近いのかと思う。この単語はこの論文のキーワードである。

              Addiction is a choice for jouissance that is administered independently of the structure that determines the social band with other people. The effect that addicts pursue is something that takes place to a large degree independently of the Other. There is jouissance that manages to bypass the Other . Addicts predominantly produce non-phallic jouissance .

              ここで、jouissance というのは、日本語では「享楽」と訳されるフランス語で、英語ではpleasure と訳されることもありますが、pleasure にはこのフランス語が持つ性的な意味がないことから、jouissance のままで訳されることが多いようです。 精神分析辞典(新宮一成)によると、 人間は話す存在である限り、自分が生きていることを知っていなくてはならず、またそのことを証し立てていなければならない。この要請から免れてただ生きることの享楽は、人間が話す存在になった限りは不可能の領域に、すなわち現実界に属する。しかし、それをあくまでも求めようとする欲望が人間の中には存在する。その意味では享楽は欲望の対象である。しかし、欲望は欲望の主体を前提とする。それに対して享楽においては、自分が享楽していることを知っている主体はすでにない。したがって、享楽は、欲望の主体が尽き果てるまさにその地点に現れる。そうした場所においては、主体はもはや自己が生きていることを知ることなく、ただ生きていることを悦び、享楽していることになる。そしてこうした場所は逆説的に人間にとっての死の場所に一致する。享楽は痛みの感覚に深く関係していて、「無限の痛み」だとラカンは言っている。 ということです。 もし、カウンセリング(精神分析)によって、依存症に対して有効な治療ができるとすれば、依存者が自分が薬物により享楽していたことを知り、それを言語化できれば、自己の欲望を再構成できる道を見出した時であると言えると思います。 さて、最初に精神分析は、刺激により緊張が生じ、それを放出するという目的論(予定説)的な考え方をするところに特徴があると申し上げましたが、欲望が上記のように享楽を求めるものであるとすると、決して満たされないものであるので、苦痛な心的緊張状態を生み出します。この緊張は、抑圧が欲望を抑えつければ押さえつけるほど強力になります。結果として、このエネルギーを放出する道と、維持し、蓄積する道の両方が生じます。つまり不完全な放出と、システム内に剰余エネルギーとしての蓄積です。前者は、様々な無意識の現れ(夢、言い間違い、症状)として表れます。後者は内的緊張を高めます。この不完全なエネルギーの放出により消え去るエネルギーを、ファルス的享楽 といい(あくまで抑圧が働いてのことです。)、後者はマルクスの余剰価値によく例えられるもので、剰余エネルギーを 剰余享楽 (a) といいます。さらにラカンはもう一つの享楽、エネルギーの完全な放出を純粋に仮定、観念的なものとして 大文字の他者の享楽 と呼びましたが、これは、不可能な地平という意味で欲望を養うルアー、囮だということです。

              To keep things within the realm of language is crucial for the ethics of psychoanalytic practice. Addiction is the opposite from the linguistic act. It uses the toxic route of the body and it can provide pleasure much more effectively and instantaneously.

              言語により、欲望の道をコントロールするというのが精神分析の倫理とでもいうものなのですが、それに対し、依存症は身体に、中毒性の経路を持ち、それは享楽をより効果的に、即座に提供してくれるのです。

              The previous system of defence is breaking down, which means that the subject finds themselves deprived of the social structures that endowed them with something that enabled them to face up to life's difficulties.

              もともとの自己防御システムが壊れるのは、主体にとって、人生の困難に直面できるような何かを与えてくれる社会構造を奪うことになります。

              Culture increasingly forces external solutions on to the subject. One of the consequences is that this subject becomes more and more dependent on the external solutions and this heralds the addictification of our society.

              文化はますます主体に外部による解決を強いてきます。その結果、この主体は外部による解決に頼るようになり、我々の社会が依存症化する事を予告しています。 ラカンは、講義の中で現代の世界では資本主義(者)のディスクールが優勢になってきたことを指摘している。科学の発達、市場経済、自由民主主義の出現が、この動きに貢献してきた。jouissance(享楽)を禁止し、分配し、標準化することで法は人々を結びつけてきた。この法が個人の自由の理想におきかえられてきた。この理想は出来る限り多くの享楽を得ることを追い求め、実際、他人に可能な限りたくさんの享楽を売ることで特徴づけられる。言い換えると、資本主義者のディスクールが主人のディスクールに重ね書きされているのだ。2つのディスクールに異なった欲望があることが問題です。つまり、主人のディスクールは、統一と社会的紐帯のために欲望を現す試みであり、それに対し、資本主義者のディスクールは個人主義のため、そして社会的紐帯なしで欲望を現そうとする。我々の現代文化での依存の作用を理解するためにはこのことが極めて重要である。 ディスクール discours は英語のスピーチに当たるフランス語ですが、言語学では言説、哲学では推理、論証にあたります。ラカンは、疎外と分離を一つに統合したものをディスクールと呼びました。つまりディスクールとは、疎外、つまり象徴界に属するものと、分離、すなわちセクシャリティに属するものを結合して捉えることで、象徴界への主体の参入により主体が疎外されること($)と、分離は享楽を制御された形で担保する対象(a)を抽出する操作だと言えます。 主体$は、単一で不動の実態ではなく、諸項( S1 , S2 , a  )との関係の中で様々な機能を持つ。つまり、主体は他の諸項との関係という構造の中に捉えられている。 a は欲望原因であり、リアルなものである。S1は妥当性の根拠を必要としない主たるシニフィアンであり、これを根拠としてつながる知の総体がS2と呼ばれる。S2という象徴体系によりリアルなものから分割された主体が$である。 ディスクールの構造は以下のものである。 パラフレーズすると、「真理」によって支えられた「動因」が「他者」に命令し、その結果として「生産物」ができるとなる。

              An identity is formed from from the very beginning of our our existence via our confrontation (as subject) with the images ,desires,aspirations ,and words of others( the Other). The causation of our suffering and our psychopathology are determined by -and functions of -this identity formation.

              アイデンティティ、同一化というのも、精神分析の大事なキーワードです。幼児期に母親(という大文字の他者)との同一化によって、我々の悩みや精神病理の原因が決定されるのです。

              Existing research about the causal relations between psychiatric and substance disorders is inconclusive. The symptoms of mental disorder and addiction problems interact and mutually influence each other.

              精神的な障害と薬物障害の因果関係は決定的ではありませんが、精神障害と依存症の問題は交互に作用し、影響しあいます。

              The cause of addiction is related to the effects of drugs and these effects are specific to the addicted subject in the sense that non-addicts would not get these effects out of drugs.

              依存の原因は、薬物の効果に関係し、この効果は非ー依存者には得られないことから、これらの効果は依存者に特有のものであると考えられる。

              Effects of drugs and alcohol do not exist independently of the subject and subjective structure. However, it is crucial importance to mention here that the effects of drugs do not exist independently of culture either.

              薬物とアルコールの効果は主体や主体の構造に基づいて存在する。しかし、ここで大切なことを言うと、文化にも基づいて存在しているということだ。

              We will see that it is important not just to consider this symbolic frame in its cultural dimension but also in its radically particular subjective dimension. 文化の次元での象徴界の枠だけではなく、完全に主体に特有な次元も顧慮することが大事だと思う。 The particular constitution of the subject is the cause of the subject-specific-effect that makes the subject addicted to drugs.

              主体の特有の構造は、主体固有の効果の原因で、それは主体を薬物依存にさせる。

              The importance of the subject-Other relationship for the development of the individual and the question of the identity of the subject ( which is intimately related to the subject -Other relationship) form a serious problem for the concept of dual diagnosis in addiction.

              個人の成長のための主体と大文字の他者の関係の重要性と主体の同一化の問題は依存における重複診断の概念に重大な問題を形作る。

              I want to emphasize the concept of administration ( of jouissance ) in this definition and propose that this concept might be helpful in outlining the the beginnings of a system of differential diagnosis of addiction that includes the subject.

              先に挙げた享楽の administration の概念を強調したい。この概念は主体を含んだ依存症の鑑別診断の鑑別診断の始まりを輪郭付けるのに有効ではないかと考える。

              Considered from a psychoanalytic point of view, there is no addiction without dual diagnosis because addiction will always have to be situated within a neurotic, psychotic, or perverse structure.


              精神分析的な視点から考えると、依存は常に神経症、精神病、倒錯の各構造のどれかに位置していなければならないので、重複診断のない依存症は存在しない。

              Further more , Freud very early on had come to the conclusion that some addictions should be related to what he called actual neurosis.With this he introduces the idea that there is a toxicity which is not situated in the drug or alcohol , but which can be situated in the body and the psyche, and indeed perhaps even within the domain of relationships.In connection with the actual neuroses he implies that the energies or drives of the body can become toxic substances when, for a variety of reasons, cannot be psychically processed or symbolically represented. In this toxicity can lead to depression(neuroasthenia) or anxiety/panic (anxiety neurosis).

              さらに、フロイトは依存症の中で、彼が現実神経症と呼んだものに関係しているに違いないと考えた依存症があることを早くから結論付けていた。彼は薬物やアルコールにはない毒性がそこにあることを言い出したのである。それは身体や心に存在するかもしれないが、実際は多分関係性の領域にも存在するのであろう。現実神経症と結びつけて身体のエネルギー、つまり欲動が、いろいろな理由で、心的に、つまり象徴的に処理されない時に毒性のある物質を作り出すということを暗示している。

              For Freud actual neurosis distinguishes itself within psychopathology via the absence of psychologically structured symptoms. (the lack of psychic processing)

              フロイトにとって、現実神経症は心理学的に構成された症候がないことで精神病理学の中でその位置を占めている。

              注)現実神経症とは、日常生活という「現実」での不適切な性生活によって生じてくるものをいう。神経衰弱と不安神経症からなる。

              The subject can not mediate their suffering via ( symbolically structured ) psychological symptoms. It is rather the case that they suffer in a direct way and often from their body.The reason for this is that the lack of psychic processing has consequences for the constitution of the subject, not just in the sense of psyche, but also as body. Here we encounter the connections between addiction, anxiety, depression, and a toxicity of the body.

              (現実神経症の)主体は心的な症候で媒介することができない。彼らは直接的な方法で、しばしば彼らの身体で悩む。この理由は心的処理を欠くことで、心的という意味ばかりでなく、身体としても、主体の構成に帰結されるからである。ここで、我々は、依存、不安、うつ、そして身体の毒性に出会う。

              It can be a question of how to live a life that is permeated with the presence of death. Or to put these questions into Lacanian terms, how does one live in a symbolic that is permeated with the real? Drugs and alcohol can provide addicts with the illusion that there is an ideal solution in existence. It makes no real difference what kind of ideal it is, as long as it works. As such we can drop one ideal and replace it with another.We can sacrifice anything as long as compensation is available. Participation in human life demands enormous sacrifices from the subject. We pay with anxiety. However, the installation of the ego-ideal can cater the necessary compensation for anxiety or loss. In other words, these ideals compensate for he loss of libidinal satisfaction that is demanded by the Other (of culture ) . This demand of the Other is difficult to negotiate for the subject.

              死の存在が染み渡った人生を送ることは問題となりうる。あるいはこのことをラカンの用語で置き換えると、現実界が染み渡った象徴界をいかにして生きるかということになる。薬物やアルコールは理想的な解決があるという幻覚を依存者に与える。それが働きを持つ限りそれがどんな理想であるかは本当は違いがない。このように我々はある理想を捨てて他の理想に乗り換えられる。代わりがあれば我々は何でも犠牲にできる。人間の一生に参加するためには主体に巨大な犠牲を強いる。我々はそれを不安で支払う。しかしながら(成長して) 自我理想ができると、不安や喪失を埋め合わせるのに必要なものを提供できる。言い換えると、(文化という)大文字の他者による要求のリビドー的満足の喪失をこれらの理想は代償する事ができる。大文字の他者は主体にとって交渉が難しいのだ。

              I propose the following formula of addiction : addiction is the process which ensues when the incarnation or representation of the ideal becomes a consumable object that appears on the empty place or in the lack that was caused by the loss of satisfaction which was demanded by the Other. It is possible to apply this formula to other typical human causes : if the representative of the ideal for the subject is another person, we have a hypnotic relationship ; if the representative is an idea, or system of ideas , we have a ( scientific) ideology ; and if the representative is the incarnation of the final truth,we have religion.

              以下に依存の公式を提案する。理想の受肉化あるいは表象が大文字の他者に要求された満足の喪失により生じた空の場所つまり欠如に現れる消費できる対象になった時に、結果として起こる過程が依存症である。普通の人にもこの公式は当てはまるので、理想の表象が人間である人には催眠的な関係が生じ、表象が思想や思想の体系である場合は、イディオロギーを持つことになり、表象が最後の審判での受肉化になる時には宗教を持つことになる。

              Neurotic, psychotic, or perverse subjects administer their enjoyment (jouissance) in different ways and indeed for different reasons. In neurosis and perversion the administration in addiction is a matter of the supplying or dispensing of extra jouissance : an attempt to suspend the limits that reality or language puts on pleasure. In psychosis the administration with the effects of drugs and alcohol concerns the management or mastery of an unbearable jouissance and it functions as a substitute for language precisely because language cannot function properly for the subject with a psychotic structure. The Name-of -the-Father is foreclosed for psychotic subjects and they are forced to live with an invading jouissance. Addiction in this structure functions as an effect that can neutralize the invading jouissance, which is a function that otherwise would have been executed by language. The administration with the effects of drugs and alcohol in actual neurosis concerns the regulation or governing of the body because in actual neurosis patients suffer indeed predominantly from their bodies. The constitution of the body in this clinical condition is a problematic affair essentially because the lack of psychic processing (or symbolization) hinder the translation and transformation from the primordial organism(that we are born as) into the body that we eventually will have. A consequence of this is that many of these patients experience a very problematic jouissance (usually in the form of pain, anxiety, and/or physical exhaustion) at the revel of their body. Addiction here functions as a kind of floodgate mechanism that regulates the kind of problematic jouissance produced in this condition.

              神経症、精神病、倒錯のそれぞれの主体は彼らのjouissance を異なったやり方で、それにまた異なった理由で管理する。神経症と倒錯では依存症のadministrationは剰余享楽を供給、分配する問題である。現実や言語が享楽に加える限界を一時停止する試みである。 精神病では薬物とアルコールの効果のadministrationは耐え難いjouissanceの管理、支配と関係し、精神病構造を持つ主体に対してランガージュは働かないため、まさに耐え難いjouissanceがランガージュの代理としてまさにその通り作用する。父の名の隠喩は精神病の主体には排除されていて、侵入するjouissance と共生しなくてはいけない。この構造において依存症は侵入するjouissanceを中和できる効果として作用するが、その作用は他にはランガージュによって達成されるほかはない。 現実神経症での薬物とアルコールの効果のadministarationは身体の調整と統治とに関連するがそれは、現実神経症の患者においては身体を主として苦しむからである。この臨床的状態での身体の構成は本質的に問題な出来事である。というのは、心的過程を欠く、つまり象徴化を欠くことが根源的な生体(我々がそのようなものとして生まれた)から、我々がついには持つであろう身体へと置き換え、変換するのを妨げるからである。この結果はこれらの患者の多くが大変問題のあるjouissanceを(普通は痛み、不安、およびまたは肉体疲労の形で)彼らの身体のレベルで経験する。依存症はここではこの状態で生産される問題のあるjouissanceの種類を調節する水門機構の一種として働く。

              The different methods of administration determine what the effects of drugs for the individual addicts. It is therefore always important in our work with addicted people to get them to articulate how they experience the effects of drugs is not just determined by clinical structure of the subject and its corresponding mechanism of administration : the effects of drugs are not just determined by the more or less universal aspect of the clinical structure but are also determined by something that is radically particular.

              administration の異なった方法が個別の依存症患者に対する薬物の効果が何かを決める。従って、我々の仕事で常に重要なのは、依存症患者に、彼らがいかに薬物の作用が主体の臨床的な構造とそれに対応するadministrationの機構によって決定されるだけではなく、つまり薬物の作用は臨床的構造の幾分普遍的側面だけによって決定されるのではなく、根源的に特有な何かによっても決定されるということである。

              I propose the hypothesis that the effects of drugs are co-determined by the particular interactions between the subject and the Other prior to the constitution of the clinical structure of the subject. In this very first phase of life the body is already being affected by the signifying behaviors and actions (or lack of them) of the (m)Other. The subject will indeed psychically experience the effects of this signifying material and these will also contribute to the formation of the identity of the subject, which includes a relationship of the subject to the body. This area of theory (and research) concerns the interface between language and the real of biology. The formation and constitution of the body in this early phase of life will determine how the subject will experience the effects of drugs. Some of these effects will no doubt lead to addiction.

              以下のような仮説を提案したい。薬物の作用は主体と大文字の他者主体の臨床的構造に先立って、主体と大文字の他者の間の特有な相互作用によって共同決定される。一生の極めて早期に身体はすでに大文字の他者(母の)のシニフィアンの行動と作用(あるいはそれらの欠如)によってすでに影響を受けている。主体はこのシニフィアンの道具の作用を実際には受けているだろうし、これらは主体の同一化の形成に貢献するだろうし、それには主体と身体との関係を含むだろう。 理論、研究のこの分野はランガージュと生物学の現実的なものの間の境界面に関係する。人生の早期においての身体の形成と構成は主体がどのように薬物の作用を経験するかを決定するだろう。これらの作用には疑いもなく依存を導くものがあるだろう。

              The crucial aspect of this theory for the treatment of addiction is that all causation and determination of addiction is situated within the subject-Other relationship and that fact alone justifies the claim that the transference (as a therapeutic subject-Other relationship) is the most privileged vehicle for change within the addicted subject.

              依存の治療に対してこの理論の重要な面は、依存のすべての原因と決定は主体ー大文字の他者関係に中にあり、そしてその事実はそれだけで、治療的な主体ー大文字の他者関係としての転移が依存症の主体を変えるために最も特権を有する媒体であるという主張を正当化してくれる。

              Freud excluded the actual neuroses and addiction from psychoanalytic practice. The reason for that was that Freud interpreted the psychoanalytic symptom within the realm of signifiers as they acquired their status and function within that realm. The Freudian symptom is the correlate of the symbolic order and thus the correlate of truth and meaning.

              フロイトにとって、症候は象徴の次元のもので、つまり心的加工を受けたものであった。そのため、真と知が関連している。

              Lacan had become interested in the emergence of modern symptoms in the sense that these are symptoms to function to a lesser extent in relation to -or within-the field of the Other.

              ラカンは、大文字の他者の領域との関係で、あるいはその領域内でより狭い範囲で働く症候があるという意味で、(フロイトの症候とは違う)現代の症候の出現に興味を持ってきた。

              When Lacan gives the symptom its new name ( the sinthome ) in his seminar on Joyce that he separates symptom from truth and connects symptom to jouissance. This is related to the introduction of Lacan’s concept of Lalangue . Lalangue is not concerned with meaning or communication but demonstrates that ,in the first instance, signifying material is related to jouissance and that ,only in the second instance, language ,being derived from that first instance ,function as a vehicle for meaning and communication .

              ラカンが症候に新しい名前、サントーム、をJoyceについて のセミナーで与えた時に、彼は症候を真実から分離させ、享楽を症候に結びつけた。これはラカンの概念であるララングの導入に関連している。ララングは意味とコミニュケーションに関係するのではなく、まず第一審で、シニフィアンが享楽に関連していることを示し、第二審においてだけ、ランガージュが、第一審に由来するのであるが、それが意味とコミュニケーションの伝達手段として働くのです。

              We can put this differently : Lalangue is pre-Oedipal and language is Oedipal.

              ララングは前エディプス期のもの、ランガージュはエディプス期のものと分けることができる。

              The Freudian symptom is an Oedipal symptom and in that context it should be considered as an unconscious appeal to the Other for interpretation,meaning, and, therefore,truth.

              フロイトの症候はエディプスの症候であり、その文脈からは大文字の他者に対する解釈、意味、従って真への無意識な懇願である。 The symptom of the modern subject is first and foremost jouissance or rather something that produces jouissance. 現代の症候は、真っ先に享楽であり、あるいは享楽を作り出す何かである。

              The human subject always serves two masters: language and jouissance. In life one has to strike a balance between these. In this context administration is nothing but accountancy, that is to say, a balancing of the books of jouissance with ciphering of language. Administration here is a form of writing jouissance.

              人間主体は、常に二人の主人に仕える。それはランガージュと享楽である。存命中はこの二人を妥協させなければならない。この文脈からはadministrationは会計の職であり、享楽の帳簿をランガージュの暗号でバランスをとるのである。

              administrationは此処では享楽を記載する形式である。

              Joyce’s writing produced a jouissance for him ; a jouissance that was entirely his own, that is to say, it was administered independently of the Other and was therefore masturbatory in nature.

              (ユリシーズの著者である)ジョイスが書くことは彼に享楽をもたらした。享楽は全く彼のものであり、つまり、大文字の他者とは全く独立して処理され、従って本質的にマスターベーション的なものであった。

              Freud argued that actual neurosis is caused by a deficiency in the psyche that prevent psychic processing of energies in the body , which ,subsequently, become toxic. Essentially actual neurosis can be considered to be a deficiency in the presentation of signifying material by the Other to the baby or infant which ultimately leads to a lack of identity and a problematic relationship to the body. I propose here that Freud’s psychic deficiency concerns a particular form of foreclosure that is different than the mechanism for the constitution of psychosis.

              フロイトは現実神経症は心の中での欠如によって起こり、その欠如は身体のエネルギーを心的に処理するのを邪魔するので、最終的にはそのエネルギーが有毒なものとなると主張した。本質的に現実神経症は大文字の他者によって、乳幼児にシニフィアンの材料を提出することができないため、最終的には同一化の欠如と身体との問題のある関係を導くと考えられます。ここで、私はフロイトのいう心的欠陥は精神病を構成するメカニズムとは違う、排除の特別な形を提唱したい。

              Lacan’s concept of the sinthome can perhaps apply to both the foreclosure of psychosis and the foreclosure of “something less light-weight as two different ways of administrating joissance.

              サントームというラカンの概念は多分、精神病の場合の排除と何か軽くない場合の排除の両者に、享楽を管理する二つの異なった方法として当てはめることができるだろう。

              This more radical foreclosure relates to the specificities of the early subject-Other relationship which includes the domain of LaLangue : the rhythms of touch, the body, and particular childrearing practices that all contribute to a style of suffering . This suffering can express itself via the body (or in actual neurotic way) if the Other is not engaged at the level of their desire and thus with their signifiers.

              このより根源的な排除は早期の主体ー大文字の他者関係の特殊性に関係し、それにはララングの領域を含む。つまり、接触、身体、そして特有の子育ての実行のリズムなど全てが苦しみの形式に寄与する。もし大文字の他者が欲望のレベルで従事せず、またシニフィアンと連動しなかったならば、この苦しみは身体で表現される。

              It is relevant to mention that the encounter with Lalangue is always more or less traumatic. Lalangue or the signifying material of the Other makes the human being sick.

              ララングとの出会いはいつも多少外傷的であるというのは適切である。ララングすなわち大文字の他者のシニフィアンの素材はその人を具合悪くする。

              The predominant presence of rhythm in this passage appears to indicate that Joyce’s administration is first and foremost a matter of regulation and governing, because that is exactly the function of rhythm in music.

              この経過でリズムの優越的な存在はジョイスのadministrationが真っ先に、調整と支配の問題として示されることに現れる。なぜなら、それこそが音楽におけるリズムの作用であるからだ。

              I suggested that regulation or governing is the function of administration in actual neurosis, whilst to dispense or supply and management or mastery as a substitute are respectively the function of administration in neurosis/perversion and psychosis.

              調整と支配は現実神経症のadministrationの機能であり、それに対して、分配あるいは供給、そして代理としての管理あるいは支配はそれぞれ神経症/倒錯, 精神病のadministrationの作用であることを示した。

              Rhythm is fundamental to speech and language. In that sense rhythm is a more or less universal human phenomenon, but the irregularities, punctuations, gaps, irruptions, and syncopations that characterize the particular baby-(m)Other relationships determine the radically singular aspect of the subject.

              リズムはパロールとランガージュには基本的なものである。この意味で、リズムは多少普遍的な人間の現象であるが、特有の赤ちゃんー母親関係を特徴付けるその不規則性、句読点、隙間、侵入そしてシンコペーションが根源的な主体の特異な面を決定する。

              It is my contention that this signifying material ,which includes specific rhythms and radical particularities, produce the subject-specific-effects of the sinthome, predominantly because of the effect that they have on the constitution of the body. The signifying material does not only have an effect on how the subject comes to fit into language but also on how the subject comes to fit into their body. The suits of language and the body are not tailor-made but ready-made and are therefore never perfectly fitting. Again,that is why the encounter of the subject with this signifying material of the Other is always traumatic and indeed more for some than for others.

              シニフィアンの素材は、特有のリズムと根源的な特殊性を含むために、サントームの主体特有の効果を作り出すが、それらが身体の構成に影響を持っているのが主な理由である。シニフィアンの素材は主体がどのようにランガージュに適応するかだけではなく、主体がいかに自分の身体に適応するかにも影響を持っている。ランガージュと身体の一揃いはテイラーメードではなく、レディメードである故に決してピッタリとは合わない。だから、主体が大文字の他者のシニフィアンの素材に遭遇すると常に外傷的で 小文字の他者によるよりも、誰かによることが多い理由である。

              The formation of the unconscious - including unconscious fantasy - administer and regulate jouissance in the subject. It is important to mention that administration ,at least in this form, is ultimately dependent on the law of the symbolic order and is therefore symbolically structured. In very same seminar Lacan refers to the “imperative of jouissance “ which characterizes the cultural superego of our time. What is implied here by Lacan is that the power of the function of the law of symbolic order is being diminished in favor of the law of jouissance.

              無意識的幻想を含む、無意識の形成は主体の中で享楽を管理し、標準化する。少なくともこの形でのadministrationが究極的には象徴的次元の法に従い、したがって象徴的に構造化されていることを表明するのは大切である。まさにこの同じセミナーでラカンは「享楽の命令」について言及し、これが今の時代の文化的超自我を特徴付けるという。ここで暗示されているものは、象徴的次元の法は享楽の法の利益になるように減じられるということである。

              The question we should ask ourselves now is the following : what happens to the administration of jouissance - which is ultimately a jouissance of the body - when the administrative machinery is forced to function increasingly on its own as a result of the decline of the function of the symbolic law ? This is a legitimate question because in the discourse of capitalism the function of the law has been replaced by the function of freedom.From the perspective of this ideology we have all become individual free agents who operate at a distance from others and indeed the law that mediates between us and others and who, paradoxically, become increasingly dependent on objects of jouissance. One way of answering this question is by asking that the kind of administration that functions increasingly independently of the Other becomes an administration of the jouissance of the body with the real of jouissance itself. Indeed ,more and more,we have recourse to objects of jouissance with which we can regulate jouissance . There is no doubt in my mind that this leads to an increase in addictions to drugs and alcohol , which are predominantly administrations in -and of - the real.

              今我々に突き付けられている問いは、象徴的な方の機能が減弱した結果として管理的機械がどんどん働くことを強いられた時に、享楽、それはつまるところ身体の享楽であるが、それのadministrationになにが起きたのかというものである。これは正当な問いだと思われる。なぜなら、資本主義のディスクールにおいて、法の機能は自由の機能に置き換えられるからだ。このイディオロギーの見方からすると、我々はみんな自由契約となり、他者からも、そして実際、我々と他者を媒介する法からも少し離れて行動し、逆説的に、享楽の対象にどんどん依存していく。この問いに答える一つの方法は大文字の他者からどんどん独立して働くある種のadministrationが、現実界の享楽そのものによって、身体の享楽のadministrationになるかを尋ねることです。実際、どんどん、享楽を管理できる対象に頼るようになる。これが優先的に現実界を、あるいはその中で優位なadministrationである薬物やアルコールへの依存を増加させることに疑いはないと思われる。

              Lacan suggests that the discourse of capitalism implies the foreclosure of sexuality and thus castration. The administration in capitalist discourse is not he administration of desire, lack, and ordinary limited pleasure , but it is the administration that belongs to the real of jouissance. ラカン曰く、 資本主義のディスクールのadministrationはセクシャリティを排除し、去勢を排除する。資本主義者のディスクールは、欲望、欠如、通常の限定された快楽のadministrationではなく、現実界の享楽に属するadministrationである。

              The imaginary inhibition of jouissnce produces depression whilst the repression of the signifier (or symbolic) relates to anxiety. If that is a case , it can be argued that inhibition causes the foreclosure of the repression of the signifier which can be considered to be the second form of foreclosure that Lacan referred to in his seminar on Joyce. The mass inhibition of jouissance, and thus of anxiety produces depression or depressive states. In other words, in that situation repressions is less able to carve up jouissance by limiting it through the creation of discrete units of jouissance otherwise known as pleasure. The limitation of jouissance leaves room for more to be desired and this situation can cause anxiety when we reach some of these limits in our experience.

              享楽の想像的な抑止は、鬱を作り出すが、一方シニフィアンの抑圧は不安に関連する。そうであるならば、抑止はシニフィアンの抑圧を排除する、それはラカンが彼のジョイスに関するセミナーで言及した第二の形式の排除として考えられる。享楽の,不安の大規模な抑止は鬱、鬱状態を生じさせる。言葉を変えると、この状況で抑圧は他には快楽として知られる享楽の分離されたユニットを作り出すことを通して享楽を制限することで享楽を分割することがわずかしかできない。享楽を制限することでより欲望される余地を残し、我々の経験がこれらの制限の幾つかに達した時にこの状況は不安を生じさせることができる。

              Lacan suggested in “Television” that the subject can become bored or morose because he or she rejects repression and thus the unconscious. Increasingly, the modern subject is not prepared to take responsibility for his or her unconscious. This means that the subject avoids the “know-how” of knowledge with jouissance. There is a decrease of “know-how” with one’s symptoms and increasing dependence on external ( mass ) solutions that are imaginary in nature, which inhibit anxiety, and which tend to cause depressive states.

              ラカンが、「Television」で主体は抑圧、よって無意識を拒否するのでだれたり、不機嫌になりうることをそれとなく発言している。ますます、現代の主体はその無意識に責任をとる備えがなくなっている。このことが意味するのは主体が享楽をどう扱うかの知識がないということである。症候をどう扱うかがわからなくなり、外部による解決、それは性格上想像的なものですが、それへの依存を増加させ、不安を抑止し、鬱状態を起こしやすくする。

              One of my analysands had come to me complaining of anxiety. Later he became depressed. It transpired that he had started taking a cocktail of anti-anxiety drugs. In this sense drugs (and alcohol) are an imaginary solution with real effects, which in this case meant a shift from anxiety to depression.

              私に分析主体(クライエントのこと)が不安を訴えてきた。のちに彼は鬱になった。彼が抗不安剤のカクテルを始めたことが分かった。この意味で薬物は現実界での効果、この場合には不安から鬱への移行を意味するが、を持つ、想像的な解決である。
               
              | 1.サイコセラピー | 22:09 | - | - | - | - |
              「絶歌」について
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                 『絶歌』について


                酒鬼薔薇聖斗と名乗る少年(以下Aと略す)が引き起こした「神戸連続児童殺傷事件」について、Aが6月28日に手記を出版して、世情物議を醸しているが、扇情的な議論はマスコミに任せておいて、別の視点からこの手記について述べたい。

                『生の欲動』作田啓一著 みすず書房 の最初の論文が「酒鬼薔薇少年の欲動」である。これは1997年の11月の中旬に書かれていて、事件当時の多くの「専門家、心理学者」の意見には無い独自の分析を提供していた。それは、Aは特別な人間であること(欲動が強すぎるという意味で特別な、そして親の育て方の問題ではなく、心の深い層で社会の影響を影響を十分に受けつけないという意味で)を述べ、祖母の死と事件との関係そして阪神淡路大震災の影響について語り、この犯罪の本質は『供義』であると述べていた。

                詳しくは是非この論文を実際にご自分で読んでほしい。その上で「絶歌」を読んでいただくと作田啓一氏の論文の視点が当時この事件を唯一正しく分析していたこと、この本の持つ本当の意味、それから人間が持つ心の闇といわれる得体の知れ無いものが、我々誰もを駆り立てる可能性があることをお分かり頂けると思う。当時の書評にこの作田氏の視点について「少年犯罪の主たちを、社会の反映としてではなく、欲動の犠牲者として見ること。それは被害者の報復感情を無視するのではなく、「社会」に加えて「人間」というパースペクティヴを用いることである。」とあるが、今回少年Aの側から事件について語られたことが、当時すでになされていた「社会学者」作田氏の分析の射程の長さを、その長さを持た無い「心理学者」の理論と比較してほしいのである。

                特に、当時のAの行った猟奇的行為を「供義」と捉え、それは「エクリチュール」であり、「強い欲動の運動があると、それがエクリチュールとして再現されざるをえないことを示す例は、限りなく見いだされる。たとえば別離の深い悲しみを、詩人は何度となく詩に書くし、一般人も日記などにしるす。強い欲動の運動がエクリチュールによって表現される時、その表現を昇華と呼ぶ人もいる(クリステヴァ)」という記述は時代を超えて出現したAの手記がまさにここで言われた意味でのエクリチュールであり、そう考えた時に「絶歌」の持つ本当の意味が明らかになると考えるのである。

                ただし、「欲動」ということの意味をどう理解していただくか、まして作田氏がこの論文でお使いになっているフロイトの「科学的心理学草稿」の「通道」の理論(ψニューロンやφニューロンのこと)をどうやって理解していただくかについては「躓きの石」だと感じている。
                | 1.サイコセラピー | 05:20 | - | - | - | - |
                Origin ではなく、Genesisを。2
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                   Origin ではなく Genesis  を。2

                  前回述べた、既存の構造(Origin)をまず置いて、それを原因として、そこから因果律で判断して結果を考える実体的関係論について、それが仏教的な因果応報論をバックボーンとしていること、またそこから実体無き関係論へのパラダイム変換について「Origin ではなく Genesis を。」と表現した。分かりやすくするために社会科学的な説明を用いたが、それをお読みいただいたことを前提に心の科学としての説明に入る。説明の場が社会から心に変わっていること、represent されていることを念頭において欲しい。

                  精神的に一番負荷がかかることは何であろうか?こういう極限の問題に答える時にはいわゆる正常な状態を基盤に考えると答えがない場合が多い。異常な状態、つまり病的な、それも最も先鋭な病的状態から考えると、それは精神病の発症の時からということになる。それはどんな時なのか?シュレーバー症例から言われることは「父であることを問われる時」という答えになる。ここで我々はどうしても実体的関係論で考えてしまう。そういうenent ( 実際に父になることや、それと同じような意味作用を持つ社会的に重要な地位に就くことなど )自体が既に存在している出来事として我々に負荷になるのことではなく、そういう場合には、実体のない、関係しかないところから対象、実体を作り上げていかなければならない、その時に言葉による自分自身への宣言(prendre la parole)が Genesis には必要であり、そこでは既存のものからの疎外と分離の過程が要請されるのである。

                  この自分自身の、自分自身への宣言、言葉による発言は、日常会話の発話とは次元がまったく違う。例として適切であるかはわからないが、聖書に神様が「光あれ」といわれたら光が誕生したとある。これも実体無き関係論で「聞く」と、(神様が宣言した相手が)光を作るようにしなさいということになる。つまり、いわれた我々が何もないところから「光」を作らなくてはいけない、作る過程を作り出さなければいけないということになるのである。神様に光をいただいたのではなく、我々がそれを作ることを要請された、つまり無からの創造を命じられたのである。まだ「光」がないのに、それを作れと神様に命じられたら我々人間は途方にくれるであろう。そもそも「光」をまだ知らない、そこでは「光」はシニフェを持たないシニフィアンであり、また「無」を我々が捉えるのは、「在る」× 『−1』= 『無い』の式を成立させる『−1』を使えないといけない。何を言いたいのかというと、精神分析で言うphallusとは、この『−1』のことなのである。無からの創造の時には、常に出発点でこの『−1』を使えるか(持っているかというと実体に受け取られてしまう)という問いがあるのだ。自分自身への宣言( prendre la parole ) が精神病の発症の引き金になるというのはこういうことであり、精神病の素質を持たない他の人々にとってもこのことは大きな負荷である。神経症も倒錯もこのような事態に対する対応である。つまり、そういう event に遭遇するたびに我々は宣言することを要請され、それに昇華で答えられる人は少なく、多くの人はそれに排除、抑圧、否認でしか答えられないということになる。そういうevent は、昇華するには Genesis を必要とするのである。



                  | 1.サイコセラピー | 05:37 | - | - | - | - |
                  Origin ではなく Genesis を。
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                     Origin ではなく、Genesis を。

                    先日、ある福祉施設の理事長さんが就任にあたり、「子どもから老人まで、障害のある人もない人も共に暮らせる施設」を理想として掲げて施設づくりを始められたということを聞いた。その施設の変わり目に、このようなスローガンを掲げて運営を始められることに賛意を示したい。

                    一方、スローガンという言葉自体には、負の意味があり、理性に訴えるより情緒に訴えるとか、真理を問題にするよりも、真理を隠蔽してしまう傾向があるとかが問題点としてあげられている。

                    プラトン以来の西洋思想の根幹には、あらかじめあるものが、どういう関係を作っていくかという考え方がある(実体論的関係論)。これに対して、ソシュールに源を発する構造主義は、関係が始めにあり、それで対象が生まれると考える(実体なき関係論)。

                    前述のスローガンを、実体と考えるか、関係と考えるかが大きな分かれ目になる。実体と考えると、すでにそのスローガンが存在するもので、それを前提にしてすべてのことが決定する。そうなると、スローガンの負の部分が出てくる。つまり、スローガンは固定してしまうので、そんなスローガンは看板だけで、現実にはないものと放棄してしまったり、スローガンを神託のように捉え、その時点でスローガンにそぐわないものは、理性的な判断なしですべて否定されてしまう。旧ソ連のスターリン時代を考えるとよくわかると思う。このようなスローガンは、空間的に考えると、上から下へと浸透、圧迫するものとなる。これを時間軸で考えると、Origin と言える。ある時あることが起こりそれで以後の自分が決定し、現在の自分はこの因果関係で決まったのだというお馴染みの考え方である。

                    一方、まず関係があると考えると、スローガンは固定されたものではなくなる。日々、作り上げられるものになる。前記の Origin に対して Genesis ということになる。Genesis には、そのスローガンを実現するというような目的があるので、目的論である。この考え方をすることで、前にブログで触れた「人は誰でも自分の出発点を選ぶことができない」ということの乗り越えが初めてできるのである。

                    登校拒否、いじめ、虐待、拒食、から、神経症、倒錯、精神病に至る様々な心の問題に、そして社会の問題にも、「Origin ではなく、Genesis を」、構造主義的な捉え方をすることが解決につながるということを言いたい。

                    心の領域を離れ、社会に目を向けたい。

                    日本国憲法が米国によって作られた押し付けられたものだということが、現在の改憲論議の中で右翼おばさんにより声高に叫ばれている。では、「民主主義」はどうなのか?これこそ借り物の最たるものではないか?右翼おばさんがどうしてこれも借り物であるのに、(しかも曲解されているのだが)それを金科玉条のごとく扱われている思想を否定しないのか不思議でならない。どんな右翼でも民主主義は否定しない。左翼も同じである。日本の民主主義の問題点は、与えられたことである。自分で Genesis したものではない、つまり、最初から 民主主義なるものが天から降ってきたもである。もしこれが欧米諸国のように戦いながら勝ち得たものであれば、Genesisしたものであり、民主主義は、完成されたものではなく、過程であり、だから日々作られなくてはいけないものなのは自明である。しかるに日本では右翼、左翼共に、ありがたい民主主義という原因がまずあって、そこから民主主義的な属性(自由、人権、平等など)が結果として出てくるというのがニーマ、雰囲気になっている。

                    そこを改めなければならない。今が自由でない、今人権侵害がある、今差別がある、だからこれを戦って獲得していく、その過程こそが民主主義なのである。スローガンというのは本来、それを実現する過程に自ら死力しようということなのであり、決して出発点にすでにあるものなのではないのだ。「あるはずのないものがあるから、だからないことにしてしまう」のではない。「あるはずのないものがあるから、それをなくしていこう」ということなのだ。

                    ヘーゲルが「世界の歴史は神の意志の実現過程である」といったことでわかるように、欧米の民主主義はキリスト教の予定調和説なのである。対して日本は、古事記、日本書紀にあるように、国自体が神から無条件で与えられているし、また思想のバックボーンが因果律の仏教なのである。このことが輸入概念を実体なき関係論から実体論的関係論へと換骨奪胎してしまうのである。

                    日本は外圧がないと変わらない。黒船による明治維新、太平洋戦争敗戦による「民主化」である。明治維新も、戦後の民主化も、出発点では Genesis があったのに、いずれもすぐにGenesisはわすれられ、「民主主義に反する。」と言われると誰も反抗できなくなる、魔除けの札、水戸黄門の印籠になってしまった。すでにあるもの、既存のものには維持するための戦いはいらなくなる。Origin などどうでもいいのだ。大事なのは Genesis であり、「今、ここで、我々人間が世界をどう意味化するか」なのである。

                    先日の国会での党首討論で安倍首相は、ポッダム宣言を読んだことがないといったが、安保政策を根本から変えようとする立場の人として許されるのかは別にして、連合国はキリスト教国だったのだから、反省してそれを読まれる時には予定調和説的に、あるいは実体なき関係論的に読まれることを期待する。




                    | 1.サイコセラピー | 13:29 | - | - | - | - |
                    ケーレと精神分析
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                       ケーレと精神分析

                      「精神分析とは、ダーザインについての基礎存在論の、ケーレ以後のやり直しなのだ」(田崎英明)が達見だと以前のブログで述べたが、最近、クライエントからそのことに質問があり、心理系の大学院で学んでいる方でも意外に哲学は勉強されていないと言うより、その使い方を知らないということを知った。学問とは体系であり、体系と言うのは、それが有機的に構成されているということである。有機的と言うのは、無機物ー有機物の有機ではない。(この点、ブログで何度も引用してきた吉本隆明の疎外の定義に出てくる有機的自然というのも同じである。)分かりやすく比喩で説明すると、民主主義と言う正しい理解があってはじめて、人権、自由等の概念が正しい位置で、正当に働く様になることを有機的と言うのである。精神分析で、欲動的身体と言うのは、この意味で有機的ではない身体をいい、有機的身体と言うのは欲動の源泉が器官という解剖学的な身体に割り当てられ、全体という体系に中に位置づけられたということを意味する。使い方を知らないというのは、有機的な体系としての哲学をお持ちではないということなのだ。インテリの方は、デカルトも、コギトスムも、ハイデッガーも、ダーザインもご存知なのだが、それが有機的につながらないだけで、だから自分の専門領野である心理学で使えないのである。部品はあるのだが、それが組み合わさって機械としては動かないとでもいえようか。

                      では、ダーザインについての基礎存在論の、ケーレ以後のやり直しとはどういうことなのか?
                      ダーザイン、現存在という用語をハイデッガーがあえて用いるのは、この単語と『自我』との差異を明確にしたいからで、現存在は道具連関の総体として存在する『世界』のなかでしか存在できない、つまり世界ー内ー存在 In-der Welt-Sein である。この考え方はデカルトからハイデッガー以前までの西洋社会の歴史的なそれとは大きく異なるものだったのである。デカルトのエルゴスム、つまり、「我思う、故に我あり」によりまず、『我』以外のすべての事物の存在、つまり世界を疑えるとした上で、疑えない『思っている我』を世界の外に置き、その上で『我』が認識できる事物、世界を認められるとしたのである。言葉を代えると、『我』が存在することが、世界を成立させるということになる。主観の成立により客観が成立することになる。これは自我中心主義と言っていいもので、これに異を唱えて、ハイデッガーは自我ではなく、現存在という用語を用いたわけである。自我は、(そして現存在は)世界の中心ではないといことで、ここにラカンの思想(鏡像段階)との接点がある。そして、現存在は、道具関連の中で(世界の中で)行為を行うことで存在しているが、その行為の中で、自分でも気がつかないうちに自分の存在に視線を向けている(Sorge: 配慮)。ところがその様な現存在も、あるいは行為の目的も、『取り替えのきくもの』であり、いわば匿名のものである。現存在が、『取り替え』のきかないものとなるのは『死』を通してのみである。死は誰も代わることの出来ない、その人固有のもので、死によって現存在は取り替えのきかないものになるのである。ただしその時にその現存在には存在は無い。未来は企投性と言われ、未来に現存在を待つものは『死』であり、『無』である。現在も道具連関の中で生きている現存在には本来的な生き方は無い(頽落)。そして過去も被投性と言われるごとく、何の根拠も無い。現存在は、過去、現在、未来を通して無の中で生きていく(無底性)。自分が気がついたら理由もなしに存在していて(被投性)、未来にはある見通しを持って、無底性の中に自分を投げ入れるしかない(企投性)。
                      「存在と時」でこのような現存在分析を行ったわけであるが、この中で世界を定義するのに用いられた道具連関には、ハイデッガーが否定したはずの、本質(材料)から存在をつくるという従来の哲学の考え方が忍び込んでいた。そして、現存在という用語を用いても、自我中心主義の言い換えに過ぎない現存在中心主義とも考えられる。いつの間にかデカルトが忍び込んでいたわけである。ここからが、いわゆるケーレなのである。単純化しすぎる説明になるが、ここまでの存在は道具連関で代表される共時的構造であったものに、新たに通時的構造を加えていくことがケーレであったと言えると私は思う(『芸術作品の根源』)。その結果として、存在の、現前しながら隠蔽され、また隠蔽されながら現前するという在り方が現れてくる。その動的な、弁証法的展開をEreignis (生起と訳される。日常語としては、出来事)というのである。
                      だから、精神分析は、Ereignis を明らかにしていくものだということになる。


                      | 1.サイコセラピー | 13:38 | - | - | - | - |